【こわい川柳 第四十六話】袋とじしたまま あの世連れてゆく 小田切南
- 2015/06/26
- 12:00
袋とじしたまま あの世連れてゆく 小田切南
【ふくろとじに耐えられるひとはだれなのか】
わたしは杉浦日向子さんのマンガ『百物語』がだいすきなんですが、いちおうこの〈こわい川柳〉は、百物語のていさいなので、こわい川柳、あとすこしで折り返しになります。
きょうは、小田切南さんの絵手紙句集『お母さんへ』からの一句です。
絵手紙が各句に添えられているつくりの句集なのですが、こわくておもしろい川柳、けっこうありました。
わたしが前から気になっているのが〈袋とじ文化〉で、よくヌードグラビアなんかがふくろとじになっていますが、あれはどういう系譜があるのかちょっと気になっています。
たとえば太宰治の『晩年』初版(昭和11年/1936年)は、フランス綴じで、すべてのページをペーパーナイフできりひらいて読み進めていくという完璧に綴じられた=閉じられた書物だったのですが(それは当時のプルーストの『スワン家の方へ』を参考にした装幀と太宰はいっています)、〈ヌードふくろとじ〉と太宰の『晩年』のありかたはどこかで通底しているようにもおもいます。
(昔わたしがmixiの日記を書いているとちゅうに、あ、『晩年』をきりひらいてみようととつぜん思い立ち、きりひらいてみたときの画像。ふくろとじ開封は、とつぜん、やってくる。この世でとじたままにさせておくことの忍耐に挫折したものたちがつぎつぎとふくろとじを開封してゆく。ふくろとじの落伍者にこの世は満ちあふれている)
ふくろとじはきりひらくわけですから、〈このわたし〉が読者になるわけです。あなたや、かれや、かのじょではなく、これからきりひらく、いまきりひらいしている〈このわたし〉です。読みたいという意志をもったわたしです。
つまり、ふくろとじをきりひらかせるとは、ほかならぬこのわたしをこの読者にするという機能があるわけです。きりひらかれたあとに読んだひとは、もうこの本からはある意味で除外=疎外されているのです。きりひらいたひとだけが、〈この本〉を読む権能を有している。
それは太宰の小説の語り手が読み手をつねに「君よ!」と呼びかけて特別扱いしているのと通底しているし、週刊誌のヌードグラビアとじが、読み手を特別な読み手として〈接待〉しているのにも通底しているようにおもいます。
ながい前置きですが、小田切さんの句です。
この句ではおどろくべきことに、ふくろとじを開いていません。とじたままで、「あの世」に「連れてゆく」と語り手はいっています。
ふくろとじはひらかれることで、だれかに所有されて意味をもてるわけですから(そうやってはじめて意味を手にすることができるのですから)、一生意味づけられないまま、あの世へおくられることになります。
だれの手にもおさめられない、目撃されなかった、読まれなかった〈闇の記号〉として、「この世」から「あの世」へと連れていかれてしまう。
ここにはふくろとじに対する、ひらいてこそわたしのものだ、という図式をくつがえすかたちで、ひらかない意志を貫徹してあの世まで連れてゆくからこそこのふくろとじは誰のものでもなくこのわたしのものだ、という強靱な意志/意思がみられます。
なにかをあけるのはつねにこわいものですが、あけないことをつらぬき、なおかつそれを所持しつづけるのも実は〈こわい〉わけです。
デリダは手紙は届かないこともありうるといい、ラカンは手紙が回遊することそのものに意味をみいだし、ジジェクは手紙はかならずとどいてしまう、それは〈死〉を意味しているから、といいました。
でもふくろとじのような手紙の思想的課題はじつは、届くか届かないかではなくて、あけるか/あけないかにもあったようにおもうのです。
そしてそれをめぐる文化が、〈ふくろとじ〉文化だったのではないかと。
そういえば、さいきん、めくったり、きりひらいたり、こじあけたりしていません。
あけなければ。あけないでおかなければ。
火の中に飛び込む欲しい物がある 小田切南
【ふくろとじに耐えられるひとはだれなのか】
わたしは杉浦日向子さんのマンガ『百物語』がだいすきなんですが、いちおうこの〈こわい川柳〉は、百物語のていさいなので、こわい川柳、あとすこしで折り返しになります。
きょうは、小田切南さんの絵手紙句集『お母さんへ』からの一句です。
絵手紙が各句に添えられているつくりの句集なのですが、こわくておもしろい川柳、けっこうありました。
わたしが前から気になっているのが〈袋とじ文化〉で、よくヌードグラビアなんかがふくろとじになっていますが、あれはどういう系譜があるのかちょっと気になっています。
たとえば太宰治の『晩年』初版(昭和11年/1936年)は、フランス綴じで、すべてのページをペーパーナイフできりひらいて読み進めていくという完璧に綴じられた=閉じられた書物だったのですが(それは当時のプルーストの『スワン家の方へ』を参考にした装幀と太宰はいっています)、〈ヌードふくろとじ〉と太宰の『晩年』のありかたはどこかで通底しているようにもおもいます。
(昔わたしがmixiの日記を書いているとちゅうに、あ、『晩年』をきりひらいてみようととつぜん思い立ち、きりひらいてみたときの画像。ふくろとじ開封は、とつぜん、やってくる。この世でとじたままにさせておくことの忍耐に挫折したものたちがつぎつぎとふくろとじを開封してゆく。ふくろとじの落伍者にこの世は満ちあふれている)
ふくろとじはきりひらくわけですから、〈このわたし〉が読者になるわけです。あなたや、かれや、かのじょではなく、これからきりひらく、いまきりひらいしている〈このわたし〉です。読みたいという意志をもったわたしです。
つまり、ふくろとじをきりひらかせるとは、ほかならぬこのわたしをこの読者にするという機能があるわけです。きりひらかれたあとに読んだひとは、もうこの本からはある意味で除外=疎外されているのです。きりひらいたひとだけが、〈この本〉を読む権能を有している。
それは太宰の小説の語り手が読み手をつねに「君よ!」と呼びかけて特別扱いしているのと通底しているし、週刊誌のヌードグラビアとじが、読み手を特別な読み手として〈接待〉しているのにも通底しているようにおもいます。
ながい前置きですが、小田切さんの句です。
この句ではおどろくべきことに、ふくろとじを開いていません。とじたままで、「あの世」に「連れてゆく」と語り手はいっています。
ふくろとじはひらかれることで、だれかに所有されて意味をもてるわけですから(そうやってはじめて意味を手にすることができるのですから)、一生意味づけられないまま、あの世へおくられることになります。
だれの手にもおさめられない、目撃されなかった、読まれなかった〈闇の記号〉として、「この世」から「あの世」へと連れていかれてしまう。
ここにはふくろとじに対する、ひらいてこそわたしのものだ、という図式をくつがえすかたちで、ひらかない意志を貫徹してあの世まで連れてゆくからこそこのふくろとじは誰のものでもなくこのわたしのものだ、という強靱な意志/意思がみられます。
なにかをあけるのはつねにこわいものですが、あけないことをつらぬき、なおかつそれを所持しつづけるのも実は〈こわい〉わけです。
デリダは手紙は届かないこともありうるといい、ラカンは手紙が回遊することそのものに意味をみいだし、ジジェクは手紙はかならずとどいてしまう、それは〈死〉を意味しているから、といいました。
でもふくろとじのような手紙の思想的課題はじつは、届くか届かないかではなくて、あけるか/あけないかにもあったようにおもうのです。
そしてそれをめぐる文化が、〈ふくろとじ〉文化だったのではないかと。
そういえば、さいきん、めくったり、きりひらいたり、こじあけたりしていません。
あけなければ。あけないでおかなければ。
火の中に飛び込む欲しい物がある 小田切南
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