かすかな音から成るあとがき、或いはあとがきにおかあさんと呼びかける。
- 2015/06/26
- 21:06
『週刊俳句』の「【週俳5月の俳句を読む】かすかな音」にて、蓜島啓介さんからとてもていねいな句評をいただきました。ほんとうに、うれしいです。蓜島さん、ありがとうございました。
引用させていただくと、
間違っておかあさんという初夏でした 柳本々々
間違えて「おかあさん」と呼んでしまう。それはいろいろな状況が考えられる。例えば、雑踏の中で母と思って呼びかけたら別人だったとか。家で物音がしたので母かと思って「おかあさん」と言ったら父だったとか。朝誰かに起こされて寝ぼけて「おかあさん」と言ってしまうとか。どのような状況であれ、「おかあさん」と呼んだ後にしずかに残るのは母の不在の事実であり、この句は「初夏でした」という明るい季節感の中にありながらしんと寂しい読後感を残す。
柳本々々氏は、「いろんなひとをお母さんと呼びたくなったりもする」、「ある日であった森のくまさんにさえ間違えて、おかあさん、と呼びかけてしまう」と書いている。相手と作者とのもともとの関係性(あるいは無関係性)が、「おかあさん」と間違って呼ぶことによってすこし揺らぐ。それは、裏返していえば、母と作者との関係性の揺らぎでもある。そこにこの句のおもしろさがあるように思った。
この句を繰り返しあじわっていたら、笹公人氏の「一瞬でケンシロウに殴り殺される雑魚にも母がいるということ」(『抒情の奇妙な冒険』所収)が思い出され、いっそう切なくなったことであった。
蓜島啓介「【週俳5月の俳句を読む】かすかな音」
通常は十句作品のところ、とてもイレギュラーなコンテンツになっていたのですが、散文も組み合わせて句と読んでくださり、私自身、蓜島さんの評を拝読し、とても勉強になりました。
蓜島さんが紹介されている笹さんの短歌ですが、この短歌にもあらわれている「母」にも、「雑魚」だけれども、「母」と表出されたしゅんかん、「雑魚」だけれども「息子/母」の関係性が強く喚起され、〈雑魚〉がノスタルジア化されるという〈母〉の力学があるのかもしれない、ときょうみぶかかったです。
ありがとうございました!
愛し合へり鯨のやうに深く潜り 蓜島啓介
引用させていただくと、
間違っておかあさんという初夏でした 柳本々々
間違えて「おかあさん」と呼んでしまう。それはいろいろな状況が考えられる。例えば、雑踏の中で母と思って呼びかけたら別人だったとか。家で物音がしたので母かと思って「おかあさん」と言ったら父だったとか。朝誰かに起こされて寝ぼけて「おかあさん」と言ってしまうとか。どのような状況であれ、「おかあさん」と呼んだ後にしずかに残るのは母の不在の事実であり、この句は「初夏でした」という明るい季節感の中にありながらしんと寂しい読後感を残す。
柳本々々氏は、「いろんなひとをお母さんと呼びたくなったりもする」、「ある日であった森のくまさんにさえ間違えて、おかあさん、と呼びかけてしまう」と書いている。相手と作者とのもともとの関係性(あるいは無関係性)が、「おかあさん」と間違って呼ぶことによってすこし揺らぐ。それは、裏返していえば、母と作者との関係性の揺らぎでもある。そこにこの句のおもしろさがあるように思った。
この句を繰り返しあじわっていたら、笹公人氏の「一瞬でケンシロウに殴り殺される雑魚にも母がいるということ」(『抒情の奇妙な冒険』所収)が思い出され、いっそう切なくなったことであった。
蓜島啓介「【週俳5月の俳句を読む】かすかな音」
通常は十句作品のところ、とてもイレギュラーなコンテンツになっていたのですが、散文も組み合わせて句と読んでくださり、私自身、蓜島さんの評を拝読し、とても勉強になりました。
蓜島さんが紹介されている笹さんの短歌ですが、この短歌にもあらわれている「母」にも、「雑魚」だけれども、「母」と表出されたしゅんかん、「雑魚」だけれども「息子/母」の関係性が強く喚起され、〈雑魚〉がノスタルジア化されるという〈母〉の力学があるのかもしれない、ときょうみぶかかったです。
ありがとうございました!
愛し合へり鯨のやうに深く潜り 蓜島啓介
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