【感想】守田啓子さんと西原天気さんが食べるかき氷
- 2014/06/09
- 20:49
後継ぎはいないいちごのかき氷 守田啓子
かき氷この世の用のすぐ終る 西原天気
【生々流転するかき氷】
575としての短詩型におけるかき氷とはいったいなんなのだろうかということを考えてみるのが今回の文章です。
守田さんの川柳と西原さんの俳句をかき氷を軸にして並べてみてわかってくることは、なぜかかき氷が世代としての位相とともに語られているのではないかということです。守田さんの句でいえば、「後継ぎはいない」としての後代に語り手が思いを馳せている、西原さんの句でいえば「この世の用のすぐ終る」とやはり後代のことを語り手が視野にいれています。
なぜなんだろう、と考えてみるんですが、私が思うに、かき氷というのは時間性を語り手に強く訴える食べ物なのではないかと思うんです。訴えるというよりも語り手がかき氷を食べるなり関わりはじめたその瞬間に語り手に時間意識が覚醒するといういいかたをすればいいかもしれません。
かき氷のポイントは、〈溶けて無くなる〉というところにあると思うんですね。自分が食べても食べなくてもそれはかたちを変え、あるものは流れ去り、あるものは揮発し、あるものは吸収される。そのような「かき氷」としての名前はあるもののの、内実が時間によって流転する食べ物、それがかき氷ではないかと思うんです。だからこそ、語り手はみずからが流転する世代交代の流れのなかに意識をおくのではないかと。
ただここで守田さんと西原さんのそれぞれの句の語り手たちのかき氷に対する意識に関してはすこし差異がありそうです。守田さんの句では「かき氷」が下五におかれ、さらに「いちごの」と甘い修飾語がほどこされています。西原さんの句は、「かき氷」が上五におかれています。
句をひとつのベクトルとしてかんがえてみた場合、守田さんの句の語り手は最終的に「いちごのかき氷」に意識が向き、西原さんの句の語り手は「この世の用」の終わりに意識が向いています。そのことによってわかるのは守田さんの語り手が目の前にある「いちごのかき氷」としての〈いま、ここ〉の生を生きようとしていること、西原さんの語り手はむしろ〈いま、ここ〉を否定することによってもうひとつの〈いま、ここ〉を構成しようとしていること、といった違いとしてとらえることができるのではないでしょうか。それは乱暴にいえば、もしかしたら俳句における季語というシステムとしての〈かき氷〉と、〈いま、ここ〉の存在様式に生にふれている川柳としての〈かき氷〉の違いかもしれません。けれども、〈かき氷〉そのものをどこに配置するかによって語り手がとらえようとしている〈いま、ここ〉への意識は変わってくるはずです。そしてその時間の微妙な妙が、このかき氷の二句には描かれているのではないかと思います。
「かき氷」という氷としての食べ物。
そういった氷にまつわる食べ物からたとえば「氷水」という季語に眼を転じてみてもいいかもしれません。それもまた生々流転のなかで語り手に偶発的な帰属意識としてのアイデンティティに意識を向ける装置としてもやがて働くかもしれないからです。すなわち、
ここもまた誰かの故郷氷水 神野紗希
かき氷この世の用のすぐ終る 西原天気
【生々流転するかき氷】
575としての短詩型におけるかき氷とはいったいなんなのだろうかということを考えてみるのが今回の文章です。
守田さんの川柳と西原さんの俳句をかき氷を軸にして並べてみてわかってくることは、なぜかかき氷が世代としての位相とともに語られているのではないかということです。守田さんの句でいえば、「後継ぎはいない」としての後代に語り手が思いを馳せている、西原さんの句でいえば「この世の用のすぐ終る」とやはり後代のことを語り手が視野にいれています。
なぜなんだろう、と考えてみるんですが、私が思うに、かき氷というのは時間性を語り手に強く訴える食べ物なのではないかと思うんです。訴えるというよりも語り手がかき氷を食べるなり関わりはじめたその瞬間に語り手に時間意識が覚醒するといういいかたをすればいいかもしれません。
かき氷のポイントは、〈溶けて無くなる〉というところにあると思うんですね。自分が食べても食べなくてもそれはかたちを変え、あるものは流れ去り、あるものは揮発し、あるものは吸収される。そのような「かき氷」としての名前はあるもののの、内実が時間によって流転する食べ物、それがかき氷ではないかと思うんです。だからこそ、語り手はみずからが流転する世代交代の流れのなかに意識をおくのではないかと。
ただここで守田さんと西原さんのそれぞれの句の語り手たちのかき氷に対する意識に関してはすこし差異がありそうです。守田さんの句では「かき氷」が下五におかれ、さらに「いちごの」と甘い修飾語がほどこされています。西原さんの句は、「かき氷」が上五におかれています。
句をひとつのベクトルとしてかんがえてみた場合、守田さんの句の語り手は最終的に「いちごのかき氷」に意識が向き、西原さんの句の語り手は「この世の用」の終わりに意識が向いています。そのことによってわかるのは守田さんの語り手が目の前にある「いちごのかき氷」としての〈いま、ここ〉の生を生きようとしていること、西原さんの語り手はむしろ〈いま、ここ〉を否定することによってもうひとつの〈いま、ここ〉を構成しようとしていること、といった違いとしてとらえることができるのではないでしょうか。それは乱暴にいえば、もしかしたら俳句における季語というシステムとしての〈かき氷〉と、〈いま、ここ〉の存在様式に生にふれている川柳としての〈かき氷〉の違いかもしれません。けれども、〈かき氷〉そのものをどこに配置するかによって語り手がとらえようとしている〈いま、ここ〉への意識は変わってくるはずです。そしてその時間の微妙な妙が、このかき氷の二句には描かれているのではないかと思います。
「かき氷」という氷としての食べ物。
そういった氷にまつわる食べ物からたとえば「氷水」という季語に眼を転じてみてもいいかもしれません。それもまた生々流転のなかで語り手に偶発的な帰属意識としてのアイデンティティに意識を向ける装置としてもやがて働くかもしれないからです。すなわち、
ここもまた誰かの故郷氷水 神野紗希
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