【お知らせ】「れんあい、のようなもの。-川上弘美『句集 機嫌のいい犬』における〈恋愛〉-」『BLOG俳句新空間 第20号』
- 2015/06/28
- 12:17
『 BLOG俳句新空間 第20号』にて「れんあい、のようなもの。-川上弘美『句集 機嫌のいい犬』における〈恋愛〉-」という文章を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
恋愛が言葉という記号によって作り出された物語なのだとすれば、ありきたりな論理や物語からどんなに距離をとろうとしても、「私」の恋も欲望も、性や性差をめぐる諸々の制度やルールに横領されざるをえない。
いくらきらびやかで魅惑的な記号に彩られていたとしても、その記号を味わうことは、恋というゲームを模倣し、反復することにどこかで成り果ててしまう。
それでも陶酔のさなかに、「私」にだけ感知される一瞬は宿りうるのだと、記号そのものを使って「私」は読者に語りかける。
そうして「私」の言葉は、記号が綴った物語によって読み手の恋愛感触を更新し、読者を恋愛の極北へと誘ってくれるのだ。 内藤千珠子「恋する「私」の記号学」『文藝』2005秋
「ねえ、私、何もわかってなかったのかな」
と聞くと、母は笑った、
「いいのよ。まだあんた若いんだから」母は静かに言った。
「そうか、若いのか」うちのめされたような気持ちで答えると、母はまた頷いた。それから、「あんたも、すごいセックスしてくれる人、見つけるのよ」と言った。 川上弘美「カレンダー」
いぜんから、川上弘美さんのテクストのなかの恋愛は、ぬるぬるしているな、ゆさゆさしているな、とおもっていたのと、もうひとつは岩松了さんの、恋愛というのはこのひろいせかいのなかでふたりでそれでもあえて破滅していこうとするふしぎ、ということばをずっとかんがえてきたことがあって、そのふたつをあたまにおきながら、かんがえてみました。
天狗たちは一日に一回、必ずゆう子ちゃんに寄っていって、さわりました。
そういうとき、さわられたゆう子ちゃんの体はぴかっと光りました。
夜のパレードみたいに。
ものすごく悲しくて、でもきれいな光でした。 川上弘美『パレード』
ミドリ子の口から出る『セックス』という言葉は、不思議な印象を与えた
『のどあめ』『キツネザル』『潮騒』『かんかん照り』などという言葉と『セックス』という言葉の間にはもともと多少の溝があるのだと思っていたが、ミドリ子が発音する『セックス』は、それらの言葉のとなりにひょいとある言葉のように思えた。 川上弘美『いとしい』
恋愛っていろんなアスペクトがあるとおもうんですが、たぶんひとつ確実にいえることは、恋愛というのは、言説化することができない、ということなんじゃないかとおもうんですね。
たとえば、好き、ということばでも、愛してるよ、ということばでもなんでもいいんだけれど、だんだんと反復されるうちに、ほんとうかどうなのかと言説がずれてゆく。恋愛は、ことばがずれるものとして機能してしまう。それは、つづけていかなければならないもの、だからですよね。しゅんかんのものではなくて、なんどもおなじ価値観のなかであなたをみいださなければならない。
だから、恋愛をするには、ねっこのぶぶんでは、黙って抱き合う、しかない。
ところが黙って抱き合うと、恋愛がずれてゆくのも恋愛だとおもうんです。
言説にならないということはかたちにならないことですし、社会の構造や制度からも逸脱していくわけです。基本的にドラマやバラエティーや雑誌メディアではこれでもかってくらいに恋愛が言説化され構造化されてゆくので。
だからわたしたちはことばでは恋愛は教育されてはいるんだけれど、でもそれをいざ実践しようとするとズレてゆくことも抱き合いながら知ってしまう。
じゃあ、〈れんあい、のようなもの〉の場所はどこにあるのか。
そんなことを、かんがえて、み、ました。
ウチダさんがいとおしかった。可愛かった。そして、どうでもよかった。
さびしい。とてもさびしい。臓物をますます煮なければ。毎晩、ますます煮なければ。これからさきに、何がめぐってくるにしろ、ずっと煮つづけなければ。
思いながら、ウチダさんにまたがって、一心不乱にほどこした。窓の外では、神虫が、大音声をあげながら鬼三千を喰らっている。清らかに、一心不乱に、喰らっている。 川上弘美「神虫」
その人は、そのとき、きれいに光っていた。
「深いところからいらしたんですね」教室が終わってからそっと言うと、生徒さんは顔を赤らめて、「そうなんですよ」と、嬉しそうに答えた。
「あの、失礼な質問かもしれないんですけれど、年齢によって光りかたは違うんですか」わたしは聞いてみた。
「違わないですよ、一生おんなじ光りかた」生徒さんはそう言って、ほほえんだ。
それじゃあ、東京のどこかで、玉木くんはあの時と同じように光っているんだ。
その日の夜遅く、教室の片付けをしながら、わたしは思った。今も、きれいな光りを体の上に漂わせて、わたしが立っているこの地つづきのどこかに、いるんだ。
玉木くん、とわたしはつぶやいた。別れてから初めて、悲しさをこめないで「玉木くん」と思えた。
玉木くんの、ことに光っているところにさわった時のひんやりとした感触が、静かに私のてのひらの上によみがえってきた。 川上弘美「発光」
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
恋愛が言葉という記号によって作り出された物語なのだとすれば、ありきたりな論理や物語からどんなに距離をとろうとしても、「私」の恋も欲望も、性や性差をめぐる諸々の制度やルールに横領されざるをえない。
いくらきらびやかで魅惑的な記号に彩られていたとしても、その記号を味わうことは、恋というゲームを模倣し、反復することにどこかで成り果ててしまう。
それでも陶酔のさなかに、「私」にだけ感知される一瞬は宿りうるのだと、記号そのものを使って「私」は読者に語りかける。
そうして「私」の言葉は、記号が綴った物語によって読み手の恋愛感触を更新し、読者を恋愛の極北へと誘ってくれるのだ。 内藤千珠子「恋する「私」の記号学」『文藝』2005秋
「ねえ、私、何もわかってなかったのかな」
と聞くと、母は笑った、
「いいのよ。まだあんた若いんだから」母は静かに言った。
「そうか、若いのか」うちのめされたような気持ちで答えると、母はまた頷いた。それから、「あんたも、すごいセックスしてくれる人、見つけるのよ」と言った。 川上弘美「カレンダー」
いぜんから、川上弘美さんのテクストのなかの恋愛は、ぬるぬるしているな、ゆさゆさしているな、とおもっていたのと、もうひとつは岩松了さんの、恋愛というのはこのひろいせかいのなかでふたりでそれでもあえて破滅していこうとするふしぎ、ということばをずっとかんがえてきたことがあって、そのふたつをあたまにおきながら、かんがえてみました。
天狗たちは一日に一回、必ずゆう子ちゃんに寄っていって、さわりました。
そういうとき、さわられたゆう子ちゃんの体はぴかっと光りました。
夜のパレードみたいに。
ものすごく悲しくて、でもきれいな光でした。 川上弘美『パレード』
ミドリ子の口から出る『セックス』という言葉は、不思議な印象を与えた
『のどあめ』『キツネザル』『潮騒』『かんかん照り』などという言葉と『セックス』という言葉の間にはもともと多少の溝があるのだと思っていたが、ミドリ子が発音する『セックス』は、それらの言葉のとなりにひょいとある言葉のように思えた。 川上弘美『いとしい』
恋愛っていろんなアスペクトがあるとおもうんですが、たぶんひとつ確実にいえることは、恋愛というのは、言説化することができない、ということなんじゃないかとおもうんですね。
たとえば、好き、ということばでも、愛してるよ、ということばでもなんでもいいんだけれど、だんだんと反復されるうちに、ほんとうかどうなのかと言説がずれてゆく。恋愛は、ことばがずれるものとして機能してしまう。それは、つづけていかなければならないもの、だからですよね。しゅんかんのものではなくて、なんどもおなじ価値観のなかであなたをみいださなければならない。
だから、恋愛をするには、ねっこのぶぶんでは、黙って抱き合う、しかない。
ところが黙って抱き合うと、恋愛がずれてゆくのも恋愛だとおもうんです。
言説にならないということはかたちにならないことですし、社会の構造や制度からも逸脱していくわけです。基本的にドラマやバラエティーや雑誌メディアではこれでもかってくらいに恋愛が言説化され構造化されてゆくので。
だからわたしたちはことばでは恋愛は教育されてはいるんだけれど、でもそれをいざ実践しようとするとズレてゆくことも抱き合いながら知ってしまう。
じゃあ、〈れんあい、のようなもの〉の場所はどこにあるのか。
そんなことを、かんがえて、み、ました。
ウチダさんがいとおしかった。可愛かった。そして、どうでもよかった。
さびしい。とてもさびしい。臓物をますます煮なければ。毎晩、ますます煮なければ。これからさきに、何がめぐってくるにしろ、ずっと煮つづけなければ。
思いながら、ウチダさんにまたがって、一心不乱にほどこした。窓の外では、神虫が、大音声をあげながら鬼三千を喰らっている。清らかに、一心不乱に、喰らっている。 川上弘美「神虫」
その人は、そのとき、きれいに光っていた。
「深いところからいらしたんですね」教室が終わってからそっと言うと、生徒さんは顔を赤らめて、「そうなんですよ」と、嬉しそうに答えた。
「あの、失礼な質問かもしれないんですけれど、年齢によって光りかたは違うんですか」わたしは聞いてみた。
「違わないですよ、一生おんなじ光りかた」生徒さんはそう言って、ほほえんだ。
それじゃあ、東京のどこかで、玉木くんはあの時と同じように光っているんだ。
その日の夜遅く、教室の片付けをしながら、わたしは思った。今も、きれいな光りを体の上に漂わせて、わたしが立っているこの地つづきのどこかに、いるんだ。
玉木くん、とわたしはつぶやいた。別れてから初めて、悲しさをこめないで「玉木くん」と思えた。
玉木くんの、ことに光っているところにさわった時のひんやりとした感触が、静かに私のてのひらの上によみがえってきた。 川上弘美「発光」
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