【こわい川柳 第四十九話】母のこと以外を想う母といて 大川博幸
- 2015/06/28
- 20:43
母のこと以外を想う母といて 大川博幸
【おかあさんと定型】
『旬』から大川博幸さんの一句です。
さいきんちょっと思うのが、川柳のなかの〈おかあさん〉ってちょっとふしぎだなということです。
なぜなんだろう、ってかんがえるんですが、おそらく定型が〈おかあさん〉に他者性を与えている気がするんですね。
基本的にわたしは定型詩というのは、語り手と定型の〈対話〉ではないかとおもっていて、定型をとおしてあらわれてくる〈おかあさん〉は定型というメディアを介して〈他者(よそもの)〉になっていくのではないかとおもうのです。
もちろん、〈他者〉だからといって〈おかあさん〉は〈おかあさん〉なんです。〈おかあさん〉というのは社会的な枠組みが強いことばですが、定型をとおすことで社会的な枠組みをかなぐりすてて、独自の・固有の・初めての〈おかあさん性〉があらわれてくる。それは〈おとうさん〉や〈こども〉と対になるような〈おかあさん〉ではありません。
そのとき、その定型のなかでたったいっかいあらわれる、ぜったいてきな〈おかあさん〉です。
で、大川さんの句です。
大川さんの句では語り手は〈おかあさん〉といっしょにいながら〈おかあさん〉以外のことをかんがえています。
句の意味内容は、おかあさんを疎外しています。ここには〈おかあさん〉はいません。
ところが句の形式は、「母」をにかいもつかっている。というよりも、ここには「母」について《しか》語られていません。たとえ「母のこと以外」についてかんがえていたとしても、それは川柳が定型をとおしてしかあらわしえないように、その「以外」は「母」をとおしてしかあらわしえないのです。
ここでは〈おかあさん〉が〈定型〉と化しています。おかあさんから始めることしかできない。しかしそこにはおかあさんは、いない。
とてもふしぎな句です。ふしぎだけれど、定型の〈定型性〉がたんてきにあらわれている。
ひとは川柳を定型から始めることしかできない。しかしそこには定型は、いない。
でも。いつも。はじまりに定型がある。
そしてそれは、いつも、ないかたちでしか、あらわれえない。
目的を持って彷徨っています 大川博幸
【おかあさんと定型】
『旬』から大川博幸さんの一句です。
さいきんちょっと思うのが、川柳のなかの〈おかあさん〉ってちょっとふしぎだなということです。
なぜなんだろう、ってかんがえるんですが、おそらく定型が〈おかあさん〉に他者性を与えている気がするんですね。
基本的にわたしは定型詩というのは、語り手と定型の〈対話〉ではないかとおもっていて、定型をとおしてあらわれてくる〈おかあさん〉は定型というメディアを介して〈他者(よそもの)〉になっていくのではないかとおもうのです。
もちろん、〈他者〉だからといって〈おかあさん〉は〈おかあさん〉なんです。〈おかあさん〉というのは社会的な枠組みが強いことばですが、定型をとおすことで社会的な枠組みをかなぐりすてて、独自の・固有の・初めての〈おかあさん性〉があらわれてくる。それは〈おとうさん〉や〈こども〉と対になるような〈おかあさん〉ではありません。
そのとき、その定型のなかでたったいっかいあらわれる、ぜったいてきな〈おかあさん〉です。
で、大川さんの句です。
大川さんの句では語り手は〈おかあさん〉といっしょにいながら〈おかあさん〉以外のことをかんがえています。
句の意味内容は、おかあさんを疎外しています。ここには〈おかあさん〉はいません。
ところが句の形式は、「母」をにかいもつかっている。というよりも、ここには「母」について《しか》語られていません。たとえ「母のこと以外」についてかんがえていたとしても、それは川柳が定型をとおしてしかあらわしえないように、その「以外」は「母」をとおしてしかあらわしえないのです。
ここでは〈おかあさん〉が〈定型〉と化しています。おかあさんから始めることしかできない。しかしそこにはおかあさんは、いない。
とてもふしぎな句です。ふしぎだけれど、定型の〈定型性〉がたんてきにあらわれている。
ひとは川柳を定型から始めることしかできない。しかしそこには定型は、いない。
でも。いつも。はじまりに定型がある。
そしてそれは、いつも、ないかたちでしか、あらわれえない。
目的を持って彷徨っています 大川博幸
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