【川柳】「帰ったの?」押入に棲むひかるひと
- 2014/06/10
- 14:39
「帰ったの?」押入に棲むひかるひと 柳本々々
(『おかじょうき』2014年6月号)
【話しかけては、ひかるひと】
むさしさんから次のような評をいただいた。
柳本々々さん、なぜ押入に「ひと」が棲んでいるのですか。「帰ったの?」と聞くということは、そのひとは柳本さんを待っている。柳本さんとどういう関係があるひとだろう。そのひとはなぜ「ひかる」んだろう。「ひと」「ひかる」はなぜ平仮名なんだろう。ここからもう一歩踏み込んで書かれると読者がついて行けなくなってしまうぎりぎりのラインを柳本さんは知っている。非日常の不思議な絵が見える。
むさしさんからのことばを読んで気づいたことなのだが、たしかにこの句には〈関係〉が胚胎している。むさしさんがいうように、この575のなかですでに進行しつつある・そしてなにごとか生じつつある〈関係性〉がこの句の重心にあるんだろうとおもう。
関係性がいちばんよくわかるのは「帰ったの?」というカギカッコに封じられたことばだ。「帰ったの?」という言表も「帰る/帰らない」によってそのひとの状況が変化するであろうことがわかるが、そもそもが575のなかでカギカッコがあらわれたときそれは語り手と聴き手が同時に生起しているということであり、もっというならばそのカギカッコとしてのことばを語っている語り手も語りながらそのカギカッコを聞いている聴き手も演じているということにほかならない。
つまり、定型におけるカギカッコとはあらかじめ語り手が語りつつも聴き手になってしまうような、そうした自己言及的な関係性がすでに内在されているのではないかとも思ったりする。
だとするならば次のようなカギカッコはカギカッコの発話が意味として言語化しえないところに関係性が生起しつつも、関係が断念してしまう「孤独」がある。すなわち、
孤独死の村の無数に立ってる「ん」 むさし
(『おかじょうき』2014年6月号)
【話しかけては、ひかるひと】
むさしさんから次のような評をいただいた。
柳本々々さん、なぜ押入に「ひと」が棲んでいるのですか。「帰ったの?」と聞くということは、そのひとは柳本さんを待っている。柳本さんとどういう関係があるひとだろう。そのひとはなぜ「ひかる」んだろう。「ひと」「ひかる」はなぜ平仮名なんだろう。ここからもう一歩踏み込んで書かれると読者がついて行けなくなってしまうぎりぎりのラインを柳本さんは知っている。非日常の不思議な絵が見える。
むさしさんからのことばを読んで気づいたことなのだが、たしかにこの句には〈関係〉が胚胎している。むさしさんがいうように、この575のなかですでに進行しつつある・そしてなにごとか生じつつある〈関係性〉がこの句の重心にあるんだろうとおもう。
関係性がいちばんよくわかるのは「帰ったの?」というカギカッコに封じられたことばだ。「帰ったの?」という言表も「帰る/帰らない」によってそのひとの状況が変化するであろうことがわかるが、そもそもが575のなかでカギカッコがあらわれたときそれは語り手と聴き手が同時に生起しているということであり、もっというならばそのカギカッコとしてのことばを語っている語り手も語りながらそのカギカッコを聞いている聴き手も演じているということにほかならない。
つまり、定型におけるカギカッコとはあらかじめ語り手が語りつつも聴き手になってしまうような、そうした自己言及的な関係性がすでに内在されているのではないかとも思ったりする。
だとするならば次のようなカギカッコはカギカッコの発話が意味として言語化しえないところに関係性が生起しつつも、関係が断念してしまう「孤独」がある。すなわち、
孤独死の村の無数に立ってる「ん」 むさし
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