【こわい川柳 第五十五話】ダウンロード途中フリーズした命 大西俊和
- 2015/07/01
- 12:00
ダウンロード途中フリーズした命 大西俊和
【日本語は精神分析的である、とラカンは言った】
今月の『川柳スープレックス』のゲスト作品、大西俊和さんの「 クリッククリック 」からの一句です。
この連作で語られているのは、デジタル・メディアのなかで反復される〈わたし〉と、しかしその反復のなかで生起される〈一回性〉としての〈わたし〉なんじゃないかとおもうんです。
かんたんにいうと、デジタルメディアのなかにも〈なまなましさ〉があるよね、わたしたちはそんなにかんたんに真空の透明な世界にはいけないんだよね、ということになるんじゃないかとおもうんです。
たとえば、
コピーアンドペースト微笑するワタシ 大西俊和
コピペというのは、そのまま切り取って貼り付けるので完璧な反復です。ところが〈微笑〉はちがいます。〈微笑〉はたえず顔の表情、線がおりなす〈一回性〉の表情です。それはコピペできるものではありません。〈微笑〉はつねに意味のゆらぎのなかで、意味にできない波線としてたゆたっている。
デジタル化されようとしている〈ワタシ〉と、デジタル化しえない〈わたし〉。
それがわたしたちはデジタル・メディアのなかで置かれている環境なんじゃないかとおもうんです。
掲句もそうです。
ダウンロード途中にフリーズすることはよくありますよね。かんぜんに画面がとまってしまう。うんともすんともいわなくなってしまう。動くという「ワン」か、動かないという「ゼロ」かの、ゼロワンの世界がデジタルです。
しかしこの句には結語に「命」と書いてあります。「イノチ」でなく。
「命」もある意味で、生きるか・死ぬかというゼロワンに近い部分もあります。それが「ワタシ」です。
しかしそこには「命」としての「わたし」もいます。
寺山修司がかつて、わたしは生まれてから長い時間をかけてゆっくりと完全な死体になる、と〈死の生長〉としてのひとの〈生〉をとらえたように、ひとは〈死〉を生き、〈死〉を育てます。そしてさいごは完全な死体になる。
ひとは、生を成長させるだけでなく、生まれてからすこしずつ死んでいき、死を育てている。
そこにはゼロワンで回収できない、生と死のグラデーションがある。
その相克が、わたしはこの「命」というかつてラカンが精神分析的といった〈漢字=日本語〉にあらわれているんじゃないかとおもうんです。
それはカタカナではない。
訓を音が注釈し、つねに「メイ」と「いのち」にひきさかれつつも、相互的に外部性をたもちあうふしぎなことば〈日本語〉。
ラカンは日本語版『エクリ』の序文でこういってました。日本人は日本語を使うことで精神分析をたえずしているのだからこんな本を読むのはいますぐやめなさいよ、と。むだだよ、と。
つまり、カタカナしえなかった漢字とやまとことばの交じった〈日本語〉はつねに葛藤しあっている。
雲、もそうです。
パソコンで化石になってゆく雲よ 大西俊和
【日本語は精神分析的である、とラカンは言った】
今月の『川柳スープレックス』のゲスト作品、大西俊和さんの「 クリッククリック 」からの一句です。
この連作で語られているのは、デジタル・メディアのなかで反復される〈わたし〉と、しかしその反復のなかで生起される〈一回性〉としての〈わたし〉なんじゃないかとおもうんです。
かんたんにいうと、デジタルメディアのなかにも〈なまなましさ〉があるよね、わたしたちはそんなにかんたんに真空の透明な世界にはいけないんだよね、ということになるんじゃないかとおもうんです。
たとえば、
コピーアンドペースト微笑するワタシ 大西俊和
コピペというのは、そのまま切り取って貼り付けるので完璧な反復です。ところが〈微笑〉はちがいます。〈微笑〉はたえず顔の表情、線がおりなす〈一回性〉の表情です。それはコピペできるものではありません。〈微笑〉はつねに意味のゆらぎのなかで、意味にできない波線としてたゆたっている。
デジタル化されようとしている〈ワタシ〉と、デジタル化しえない〈わたし〉。
それがわたしたちはデジタル・メディアのなかで置かれている環境なんじゃないかとおもうんです。
掲句もそうです。
ダウンロード途中にフリーズすることはよくありますよね。かんぜんに画面がとまってしまう。うんともすんともいわなくなってしまう。動くという「ワン」か、動かないという「ゼロ」かの、ゼロワンの世界がデジタルです。
しかしこの句には結語に「命」と書いてあります。「イノチ」でなく。
「命」もある意味で、生きるか・死ぬかというゼロワンに近い部分もあります。それが「ワタシ」です。
しかしそこには「命」としての「わたし」もいます。
寺山修司がかつて、わたしは生まれてから長い時間をかけてゆっくりと完全な死体になる、と〈死の生長〉としてのひとの〈生〉をとらえたように、ひとは〈死〉を生き、〈死〉を育てます。そしてさいごは完全な死体になる。
ひとは、生を成長させるだけでなく、生まれてからすこしずつ死んでいき、死を育てている。
そこにはゼロワンで回収できない、生と死のグラデーションがある。
その相克が、わたしはこの「命」というかつてラカンが精神分析的といった〈漢字=日本語〉にあらわれているんじゃないかとおもうんです。
それはカタカナではない。
訓を音が注釈し、つねに「メイ」と「いのち」にひきさかれつつも、相互的に外部性をたもちあうふしぎなことば〈日本語〉。
ラカンは日本語版『エクリ』の序文でこういってました。日本人は日本語を使うことで精神分析をたえずしているのだからこんな本を読むのはいますぐやめなさいよ、と。むだだよ、と。
つまり、カタカナしえなかった漢字とやまとことばの交じった〈日本語〉はつねに葛藤しあっている。
雲、もそうです。
パソコンで化石になってゆく雲よ 大西俊和
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