【お知らせ】ウェブマガジン『アパートメント』のはらだ有彩さん毎月連載「日本のヤバい女の子」の今月の「距離とヤバい女の子」のレビュー
- 2015/07/01
- 21:36
決定的に「ちがう」ことの〈距離〉を認識しながら、あとは「だいたい、おなじ」〈距離〉のなかで、あなたと〈再会〉しつづけること。それが愛としての〈距離〉なのかと〈わたし〉は〈あなた〉に問いつづける
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第二回目の今月のはりーさんの文章は「距離とヤバい女の子 」という〈七夕伝説〉の距離感と女の子をめぐるエッセイです。
さいきん高畑勲の『かぐや姫の物語』のことをかんがえていたのですが、あのアニメの〈男〉と〈女〉の〈距離感〉とも通底するところがあるなとおもい、はりーさんのエッセイ、今月もとてもおもしろかったです。
以下は、わたしが今回書いたレビューです。荻原裕幸さんの〈距離〉をめぐることばから今回ははじめてみました。よくわたしが思い返していることばです。
※ ※
誰でも自分なりに……「距離」を持つてゐる筈で、その距離自体が、その人の個性そのものなのだから。無理に何かを「装ふ」必要はないんぢやないだらうか。
荻原裕幸『歌壇』1994年9月
*
今回のはりーさんの〈ヤバい女の子〉は、〈距離〉をめぐる〈女の子〉の物語です。
〈距離〉とは、なんなのか。
そういえば、高畑勲の『かぐや姫の物語』でもかぐや姫は最後に〈決定的な距離〉をもって地上から天界へと離れていくし、宮崎駿『風立ちぬ』においてもさいごの二郎と菜穂子のあいだには、〈生〉と〈死〉というやはり〈決定的な距離〉があります。
こんかい、はりーさんが紹介されている七夕の物語の系譜をなす「天稚彦(あめのわかひこ)物語」。
はりーさんがこの物語の女の子を「元気なひとだなあ」と思ったように、この物語は、うえの高畑勲の『かぐや姫』や宮崎駿の『風立ちぬ』をみごとに反転しています。
〈女の子〉のほうから、動くのです。
好きなひとといっしょにいようとすることで無理難題をつきつけられるのは〈女の子〉のほうで、二郎という〈男〉でも地上側の論理で動いていた〈男たち〉でもありません。
そして〈彼女〉はみごとに無理難題をはねのけて、愛を手にする。いちねんにいちどだけあえる限定された〈愛〉です。
はりーさんがこの物語で着目した点は、あいての論理に回収されないで、じぶんの論理をとおしながら、あいてと恋愛するこの〈女の子〉の物語です。
はりーさんはこんなふうに書いていました。
《しかし、天稚彦物語の少女は、最後まで人間です。彼女は自分の個性を捨てなかった。そしてそのまま愛するひとを勝ち取った。
男の家族と同じ鬼になれば、ひとつ屋根の下で暮らせたかもしれない。そうすれば年に一度なんてことにはならずに済んだろう。あるいは、恋をなかったことにして地上に帰った方がよかったかも。そうすればきっと、あたたかな実家で家族と暮らせただろう。
彼女はそのどちらも選ばずに、知らない土地で、ひとり人間のままでいる。》
わたしは、ふっと、おもったのです。
ああ、〈距離〉とは実測的な距離のことではない。〈演技〉はなんの問題でもない。〈距離〉とは、じつは、恋愛において、それぞれがもつ価値観を、どちらかに暴力的に回収しないで、ずっとお互いに葛藤させつづけていくことなのだ、と。
そしてそれこそが、〈恋愛〉なのだと。
だから、かぐや姫をとりまく公家たちの恋愛も、二郎と菜穂子の恋愛も、じつは、恋愛ではなかったのではないか。公家はかぐや姫の、二郎は菜穂子の論理にもっともっとぶつかりあい、葛藤すべきだったのではないか。
はりーさんは、愛をこんなふうにシンプルかつ決定的に定義しています。
《愛を突きつけてやりたいからといって、電車の中で恋人とキスをする必要は必ずしもない。あなたはただ呼吸をすればいいのだ。》
愛とは、呼吸だと。
だとすれば、おたがいが呼吸しあうためには、その呼吸を尊重しあうのだとすれば、やはり論理をどちらかに回収するのではなく、すりよせ、すれちがい、しかしそれでもにもかかわらず、葛藤しつづけるしかない。
愛は、呼吸だから。おたがいの。やむことのない。
決定的に「ちがう」ことの〈距離〉を認識しながら、あとは「だいたい、おなじ」〈距離〉のなかで、あなたと〈再会〉しつづけること。それが愛なのかと〈わたし〉が問いつづければ、
あなたは答えなかった。あなたには意味をなすものはなにも見えなかった。光だけがあった。あなたの目の前は、明るかった。驚くべき平明さだった。あなたの体から、あなたの過去と未来が同じ平明さをもって水平にぐんぐん伸びていくような気がした。あなたは未来のことはもちろん、過去の具体的なできごとをなにひとつ思い出してはいなかった。ただ、あなたが過ごしてきた時間とこれからあなたが過ごすであろう時間が、一枚のガラス板となってあなたの体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた。今、その同じガラス板が、わたしのすぐ近くにやってきているのが見えている。わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ。 藤野可織「爪と目」
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