【お知らせ】「【かばん四月号評】素敵って、すてき。~四月号のステキをめぐって~」『かばん』2015年7月号掲載
- 2015/07/07
- 19:25
かばん編集部からお話をいただき、『かばん』2015年4月号のかばん会員歌評を書かせていただきました(私のミスがなければ、全員分を書きました)。
ただ、誌面だとマックスで一万字と文字数が限られていてしまったため、省略するまえのもともとのロングバージョンをWeb版として載せておこうとおもいます(これより以下は、ロングロング前号評のすべてです。これより以下では、もう案内役のわたしはあらわれません。それでは、また、別の機会に・別の場所で、お会いいたしましょう)。
※ ※ ※
素敵って、すてき。~四月号のステキをめぐって~ 柳本々々
短歌って、すてきだなって思うんですね。ただふだん具体的にすてきを考えたことがなかった。ぼんやりとしかすてきと向き合ったことがなかった。ポッキーを食べながら、ああすてきだね、とすてきについて軽く考えていたところがあった。おざなりだった。
だから今回こういう機会をいただいたのでできるだけ〈すてき〉と泥臭く取り組んでみたいと思うんです。できるだけふかく泥のなかにもぐりこむように。その泥の底でできるだけ多くの〈すてき〉を採掘できるように。
たとえば隣り合わせた少女がもたせかける頭のおもさに希望をかんじる 後藤葉菜
後藤さんの歌です。ものすごい定型からのあふれなんですがそれが「少女」の「頭のおもさ」になっていて、「希望」という〈重力〉へとつながっています。定型の過剰な使い方が素敵です。
みるちや色つてどんな色なの訊いてきた瞳の奥遙かうねり出す海 こずえユノ
こずえさんの歌です。「みるちや色」ってたぶん一般的にはわからないと思うんです。私は少なくともわからない。茶色なのかなあとは思うんだけれど。でもその〈知らない〉ことが可能性の吹き溜まりになっていく歌です。福田若之さんの俳句「歩きだす仔猫あらゆる知へ向けて」に通ずる素敵さがあります。
小林が来たら隠せよワサビ味ばかり選んで食べまくるから 小坂井大輔
私、小坂井さんの〈小林〉シリーズって好きなんですね。小林をシリーズ化しようと思てることが既に素敵だと思ってるんですが、その小林のパースペクティヴが一点に定まらないように小林の可能性が展開=転回されていく。小林的素敵さがあります。
地下鉄が私鉄に変わり終点にサブウェイがある町並みを行く 倉持貴尋
倉持さんの歌は、定型のベクトルと語り手が移動し、語り手をめぐる状況が推移していく様子が重ねられているのが素敵だと思いました。サブウェイ、私好きなんですが、裏の意味で〈地下鉄尽くし〉な歌なのも素敵です。
知っていた道を見つけられずに独り言をこぼして歩く 原田洋子
原田さんの歌は自らの記憶が迷宮化しているところが素敵です。原田さんの連作「春」はどことなく自らの〈記憶の揺れ〉と出会ってしまう連作なんですね。「記憶の奥の春」に、出逢うこと。
あらわれるそばからきえるあわ雪のこんな日に使いきる消しゴム 佐藤弓生
佐藤さんの歌を読んであらためて気がついたんですが、消しゴムを使いいきる日って劇的なんですよね。ドラマチックなんです。ありふれているけれど、でもそうそうないことです。それが「あわ雪」の消尽と対照的にすぐに消える/なかなか消えない/でもぜんぶ消える位相をかたちづくっています。きえるすてき。
あのひとのほんとのかおはどれだろう裏と表と甘い満月 那由多
那由多さんの歌の結語の「甘い満月」が効いていると思うんですよね。考えてみると、わたしたちってどれくらい月のおもてとうらをきちんと区分けしてみているのか、そもそもそのどちらかしかみたことないのか、そういった月に対する私たちの視座が「ほんとのかお」に掛かっていると思うんですよね。甘い素敵。
花火果て静かに呼吸【ルビ:いき】を整ふる世界捉えし画家の心よ 吉川満
吉川さんのこの連作「ホイッスラーによるテムズの花火」では、花火と記されている通り〈消え入る〉ということが主調音になっているように思うんですね。でもその〈消えた〉後の世界をもう一度立ち上げる「画家の心」がある。その消えた〈後〉の立ち上げ方が、出来事を言葉にする短歌と響きあって素敵です。
(いちばん綺麗なものを盗むしかない フラミンゴが川を渡った) とみいえひろこ
とみいえさんのこの歌の「フラミンゴが川を渡った」。以前から短詩のなかのフラミンゴがとても気になっています。これ、ショッキングピンクが踏み越えたという感じがするんですね。自分が踏み越えちゃいけないところを踏み越える意味合いがフラミンゴにはどこかしらあるのかなと。「盗む」と「フラミンゴ」の桃色の響き合い。
いつもの娘【ルビ:こ】平たい顔で袖つかみ おじちゃんあのね。ママが死んじゃったの。 池田幸生
池田さんの結句が大幅に定型をはみ出している一首です。レトリックと倫理の関係性について時々考えるのですが、この一首においてはレトリックを使わない、そして定型も守らないということがたぶんこの歌のひとつの〈倫理〉になっているように思うんです。短歌に納めないことが短歌として短歌を問うことになる。〈なに〉を〈どう〉歌えるのか、と。
ありのまま身柄投げ出すほかは無しカード地獄の思はぬ鉄鎖 兵站戦線
兵站さんのこの一首の「地獄」に注目してみたいんです。短歌において「地獄」が現れるとき、どれはどこかで寺山修司の〈地獄〉の修辞とつながっているのではないかとも思うんです。地獄のレトリックがどのようにいま・ここで機能するか。「カード地獄」には返しても返しても無限に連鎖する〈欠如〉の地獄があります。
星雲の縁のあたりにぶらさがる天体として眠りに落ちる 風野瑞人
風野さんのこの歌で素敵なのが「星雲の縁」という星雲に縁ってそういえばあったんだという〈端っこ〉の発見だと思うんですよね。「眠りに落ちる」ってたぶんそういう自分が普段意識できない場所へ入っていくことなんじゃないかなって思うんです。「ぶらさがる」「眠り」って素敵ですよね。
誰かしら名前に惹かれ頼んでたうす紫のムーンライトソーダ 田中有芽子
ムーンライトソーダって名前のソーダがあったらとりあえず頼んじゃうと思うんです。語り手の語法にもあらわれていますよね。「頼んでた」と。「(気がつけば)頼んでた」。それくらい素敵なソーダだった。「うす紫」というはかない具体性も素敵。
すたすたと診察台に上がる猫わたしは何を信じていいの 千春
診察台に上がるって考えてみるとちょっと非日常の行為だと思うんです。もしくは自らの主体を脱ぐような行為かもしれない。ところが猫はその境界を境界として感じずに上がってしまう。猫が境界線を語り手に問いかけている。その「猫」のありようからの「わたし」のゆらぎが素敵。
現実に帰ってゆくよ妖精がワンダランドは伊那市山寺 川合大祐
「大人のためのわらべうた」という連作のタイトル自体が「大人」と「わらべ」で逆説的な磁場をうんでいます。「妖精」という普通名詞と「伊那市山寺」というそれ以外ありえないほどに現実的な固有名詞の拮抗。〈現実〉ってもしかして〈名前〉からきているのかもしれませんね。え、でも、だとしたら〈現実〉は、仮構された〈現実・性〉でしかないのだろうか。と、問いかける連作。
ついうっかり素敵な恋をすりゃいいじゃん私と始めてみればいいじゃん 斎藤見咲子
短歌の中で「じゃん」をナチュラルに使うって結構難しいことだと思うんですね。でも「ついうっかり」からこの歌が始まっていることで「じゃん」がナチュラルな文体として構造的に機能している。それって素敵じゃんね、と思いました。
窓越しに横なぶりする雪の舞い死者も生者もうずもれている 江草義勝
ジェイムズ・ジョイスに「死者たち」っていう短編があって、ラストに雪が降って生者も死者も妻も妻の記憶のなかの死んだ恋人も妻のことを他者と感じ始めた私もすべてが雪で覆われる話なんですが、この歌でもわかるように「雪」って生死の境界を溶解し、ないまぜにするメディアなんですよね。
海底にたまつたへどろを掻き分けて愛の残骸探したが無い 新井蜜
新井さんの以前書かれていたいろんな場所に「愛をさがす」連作とても好きだったんですが、ここでは「愛の残骸」を探しています。その意味では愛はとりあえず〈進化〉している。残骸だけれども。でも、ここでも、また〈無い〉。もしかしたら愛は〈さがすこと〉そのものにおいて明滅しながら浮上する〈なにか〉なのかもしれない。
いつまでもやまない雨を眼前に踏みしだかれる花びらを見る 雨宮司
花びらって降ってくるもの、散るものに焦点化しやすいと思うんですが、雨宮さんの歌の語り手は「踏みしだかれる」花びらに視点が向いている。それがおそらくは語り手の〈内面〉のさりげない投影のようでもある。
夜に総括をするのを止めてみるのも一時的にはありかもな 辻井竜一
連作タイトルは「バニラ・スカイ」。バニラスカイは幻想という意味もあるから、〈総括〉も幻想としてのアイデンティティの担保かもしれない。
結局はアトムの子だろベニヤ板ぶちぬくほどにくやしかりけり 山下一路
原子力は〈みえない〉かたちで「放射能」として私たちの生活に強い影響を与えた。そのときこの歌のように〈くやしさ〉が逆に〈物質化〉するのではないか。
甘くなりたい。あさっては誕生日。いちご100%で生きる 藤本玲未
〈句点(。)〉が、自分が自分に呼びかける会話体として、或いは句点の○、%の○がイチゴのようで、イチゴのレトリックの素敵さがある。
サンタよりぬらりひょんがいればいいこの世は忘れたものばかりかも 奥坂竺人
「サンタ」という〈言語存在〉でありながら商品的に具象化されていく〈老人妖精〉と、やはり〈言語存在〉でありながら属性をもたない〈老人妖怪〉。
サンダルを脱いで夢中で逃げるとき溶接工と目が合っている 柴田瞳
メディアのなかの犯罪であっても〈わたし〉に迫るリアリティが特徴的だと思うんです。いかなる状況でもふいに〈わたし〉が生身にたちかえる瞬間がある。
メメント・モリ…花見の菰に寝転んで見上げた空に若き母さん 久保明
小津夜景「狩りくらやメメント・モリをいねむりす」を思い出した。〈寝る〉とメメント・モリが共鳴しあっているのが興味深い。
締め切りとふ負えぬシメール間近にて共に分かつか硝子屋の悲運 乗倉寿明
連作内で語り手が漢語文体からだんだんひらく文体になっていっている、文字通り語り手自身がひらいていく過程がある。連作のカタチのすてきさ。
望みってなんだったっけ 本を閉じ 賞状よりも手紙が欲しい 榎田純子
「なんだったっけ」が一字アキとして視覚化されている。論理化できない思考処理の過程が空白。「手紙」という誤配される言語を欲している語り手の気づき。
関わりのうすいひとから夢の中リップクリーム塗ってもらいぬ ミカヅキカゲリ
「関わりのうすいひと」が「夢」に出てきてるのが面白い。夢の中に出てくるなんて関わりが〈濃厚〉じゃないですか。しかも身体的〈痕跡=感触〉としての「リップクリーム」も塗ってもらう。そうした関係のやつぎばやのグラデーションがステキ。
話すこと見つからなくて窓の外体温計が鳴るまでの雲 本多忠義
ふいにできてしまった他者とのエアポケットがすてきですよね。でもそれも限定された時間のなかであって「体温計が鳴るまで」なんですね。そしてその限定のなかでだけみることのできる「雲」もある。
雲の骨のアラをばらまき夕空はブイヤベースを煮染めていたり 井辻朱美
雲に骨があるんだというまず初句での驚きです。その雲の身体性から、夕空まるごとを食材に変えていく〈食べる行為〉への転轍があります。雲にも、夕空にも、〈肉〉となる部分があって、それを〈肉化〉できる語り手がいる。ことばのスープ。
エメラルドグリーンのプール 冬の日と無縁なものの一例として 大澤サトシ
短詩においてみられる〈~の一例として〉構文、とても気になっています。この歌では、「エメラルドグリーンのプール」という使われていないプールがあえて〈美しく〉歌われることによって冬とは無縁ながらも語り手とことばの上で縁を結んでいくという、〈つなぐ〉ことの素敵さがあります。
注射器にあかぐろくほとばしりゆくいのちあり我ならぬいのちが 佐藤元紀
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」という斎藤茂吉の歌を思い出しました。佐藤さんの歌では、茂吉のラインとしての赤い命が、反転されるかたちで「我ならぬいのち」になる。その反響の仕方が面白い。
鳥と話すといはれてよりそつとそつと「あぶないからねむかうでまつてて」 笠井烏子
歴史的仮名遣いで口語体で短歌をつくると素敵な〈もたつき〉がことばの触感として出るように思う。この歌は「鳥と話す」と語り手が言われているようなのでそうしたマジカルな感じがことばのもたつきによってより魔術的になっていると思いました。
ふくれっ面怖いからねえ笑ってよ一、二、三分ほらもう笑顔 福島直広
「一、二、三」ならよくあるんだけれど、「一、二、三分」って《わりと》長いんですよね。短歌の時間って31音だから、10秒ぐらいなんだけどこの短歌の時間性は、〈三分間〉になっている。笑顔までがわりと長い。その長さを逆に出し抜く面白味として感じました。
籐椅子に回収できませんシール受け入れられぬ人がまたいた 有田里絵
回収できませんシールを貼られたゴミ置き場の籐椅子。それをひとの〈受容〉の問題として昇華しているこの歌の視座が面白い。それが「籐椅子」という具体的名称をもった椅子として持ち主が愛着がある椅子だったんだなあと4音で即座にわかるのも素敵です。
立春の陽に百日紅は照らされて君の不在をどうしたらいい 河合弘枝
この連作「二〇一五牧水紀行」では〈牧水の不在〉がテーマとして浮かび上がってると思うんですが、この歌ではその不在が「君」と変換されることで身近なひとや親しいひとも代入可能になっているところにこの歌の本当に切実な「どうしたらいい」があると思うんです。その切実さが素敵でした。
日記でも調律します猫からのひっかき傷をためらい傷と 小野田光
「日記を調律」するって面白い表現ですよね。しかもこの「でも」という微妙な語法がいいですよね。日記じゃなくてもいいんだけれど、まあでも「日記でも」調律しようかっていう。この短歌自体の〈ためらい〉の視座が面白い。
「自由ってかくかくしてて自由って感じじゃないわ、そう思わない?」 田中ましろ
昔、町田さんってひとに出会ったときになんてかくかくしてる□ばかりの名前のひとなんだって思ったことがあるんですが、そうか「自由」もかくかくしてますね。田中ましろさんの青空に軟禁される歌、好きなんですが、ましろさんの短歌のなかの〈自由/不自由〉のテーマを感じます。
赤き箱つむオートバイ郵便をはこびてゆきぬ雪降る街を 嶋田恵一
ふだんの街の赤い郵便屋さんと雪の中の郵便屋さんはあらためて違うものなんだなと思いました。白と赤の対比と、雪という静と、赤い郵便屋さんの動との対立など、対比の重層性がすてきな歌です。
今日もまた許しを得ないと進めないところで記すぼうけんのしょは 壬生キヨム
ドラゴンクエストって短詩の関係ってときどき考えるんです。「ぼうけんのしょ」。許しを得ないところでセーブしているってところが面白い。もしかすると〈死ぬ〉かもしれないわけです。許しが出ずに。象徴的に語り手はこれから他者とのかかわり合いで〈死ぬ〉かもしれない。ドラゴンクエストはもしかしたら〈死〉をめぐる物語なのかも。
どこまでも飛んでいけるという言葉だけが飛んでく 春の円盤 広央ヒロ
「春の円盤」がぐっときました。同時にこの円盤がUFOだったらいいなあとも思いました。UFOに「春の」って季節があったらちょっとステキな感じしませんか。そのひとにとってはUFOが季語になるわけです。言葉が飛ぶ、というのも実はそんなに悪いことでもないんじゃないかって語り手は知っていたりするのかも。
流れゆく水どうしてもこうしたい選択それを間違えてても 鈴木智子
この連作「アラブの風呂」は「あわい」や「曖昧」のなかでもそれでも生じてくる確固とした〈たしかさ〉がテーマになっているように思うんです。「間違えてても」「選択」「したい」〈たしかさ〉。それが「アラブの風呂の壁の冷たさ」として現れてしまうことの触感としての〈たしかさ〉。わたしの外からやってくる力強さとしてのたしかさ。
結婚せず子も産まないでいるけれど不思議にわたしは変わっていった 柳谷あゆみ
連作タイトル「ひまについて」。この〈ひま〉を積極的に見いだすことがあえて賭けられているのかなとも思ったんです。「結婚」や「出産」をしない〈わたし〉は社会のシステムから疎外されているかもしれないけれど、でもその社会の〈ひま〉のなかで〈不思議な成長〉をしていく〈わたし〉がいる。じゃあ〈それ〉はなんだろう、その〈ひま〉を短歌は実は指摘してしまうんじゃないか。バートルビー。
エイエンと呼ぶほどの時を泳ぎ来て地球に着いた気のする寝覚め 前田宏
前田さんの歌をみて初めて気がついたんですが、「エイエン」と「エンエイ」ってちょっと似てるんですよね。えいえんには笹井宏之さんの有名なえーえんの歌もあるんだけれど、えいえんというのは永遠としての時間性よりもことばそのものに付随する「エイエン」「えーえん」というような意味からの時間性なのかなって思いました。
メルトダウンといふ語の甘さ思ひつつ君よ真白き床にて眠れ 小佐野彈
「メルトダウン」ってこの歌に「甘さ」と書いてあるようにたとえば「メルトチョコレート」みたいにどこか換喩としての隣接しあう〈甘さ〉がある。だからそのことばとでも実際に起きてる出来事の距離感の間合いを歌っている歌だと思うんです。そのときの「真白き」というカラーをどうとらえるかが大事な歌になるんじゃないかなと思います。
目薬の差し方が変と云われて宇宙人たちごめんごめんね 三好類子
たぶん〈ただしい〉目薬の差し方は誰もしらないんだけれど、「宇宙人たち」が出てくることによってその〈ただしさ〉自体が空転してるのが面白い歌なんじゃないかなって思うんですね。語り手が謝ってるのも素敵ですよね。宇宙人に対していいひとであるところがすてきです。
四肢のうち何とはなしに三本を動かし時速五十キロにいる 稜崎瑞歩
不思議なおもしろさのある歌なんですが、「時速五十キロ」という明瞭な具体性と、「三本を動かし」という不明瞭な具体性とがあいまってインパクトある〈からだ〉と〈速度〉の歌になっていると思います。あえて頭=理性は動かしていないような。解体されるすてきさ。
沼そこにしずめしとけいかけなおしふじなる山にときたずねおる コトハラアオイ
ほとんどがひらがなであることに注目したいんです。「沼」や「山」といったカテゴリーとしての場所だけが漢字である。あとは意味が即座に分節しがたいひらがなでできている。それがこの歌のゆったりした時間性なんじゃないかなって思いました。山に時間をたずねるってきっとそれだけの時間性なんだろうなあって。
白黒をつけてしまえば後がない その場しのぎも明日への一歩 島坂準一
短歌には〈膝ポン短歌〉または〈なるほど短歌〉というものがありますが、私は〈膝なで短歌〉という読むとやさしく生きていけるような短歌があるんじゃないかと思っているんですね。で、島坂さんのこの歌、グレーゾーンでいいんだよという歌ですよね。姑息=その場しのぎを積極的にしていこうよ、と膝をなでてくれるようなやさしさが素敵だと思いました。
わたくしは「NULL」を意味する記号なり意志を持たずに意味を持たずに 吾妻利秋
吾妻さんの連作タイトルは「MADE IN 黄泉の国から」なんですが、「NULL」とは「ゼロ」さえも意味を持ってしまうから、「NULL」という記号でなにもないことをあらわそうとするプラグラミング言語です。その〈なにもなさ〉が「黄泉の国」と呼応している。でもそれがメイドインというやはりどこかプログラムやシステムが関わっているところが面白い歌だなあと思いました。
黒蜜が征服をしたあんみつをくずしくずし新居のはなし 牛島裕子
スイーツのなかでも「征服」が起きているんだという視点が面白いですよね。黒蜜ってたしかに植民化していくように、糖度の帝国で浸食していきますもんね。で、それが「新居のはなし」というややシリアスなはなしにつながっていく。だれと住むのか、だれが買うのか、だれになるのか、〈わたし〉は。
闇雲に突き進んでいるようですが脳内会議の真っ最中よ 米村尚子
『脳内ポインズンベリー』というマンガがあるけれど、最近マンガにどうも脳内会議が多いように思うんですね。でもマンガに多ければそれは連鎖的に短詩も反応していくのではないか。そんなふうにも思うんです。『脳内ポインズンベリー』から学べるのは「脳内会議」にも「闇雲」が訪れるということです。だからもしかしたらこの短歌の脳内会議にも、という少し緊張感も。
ほんの1秒むねをはるきみ 巻き戻し・早送りされる駅に出現 杉山モナミ
1秒っていう視覚の感覚ってデジタルな感覚だと思うんですね。この歌で面白いのはそのデジタルが「巻き戻し・早送りされる」と継ぎ足されることで、デジタルのふりはばが現出してくるということです。それは〈わたし〉から〈きみ〉へのたぶん〈ふりはば〉にもつながってくる。出現。
落ちていく飛行機雲に糸結び取り返せない過去のことなど 白糸雅樹
宮崎駿『風立ちぬ』のエンディングは荒井由実「ひこうき雲」でしたが、『風立ちぬ』が亡霊を出すことで取り返せない過去をつなぎとめ(或いはごまかしてしまっ)たアニメなら、白糸さんの歌は取り返せない過去を過去としてなんとか〈ことば〉の上で「結」ぼうとする歌のように思うんですね。それでもたぶん「落ちていく」のだときっと語り手はわかっているのだけれども、でも「糸結び」をうたってみる。その分節をつくってみる。
ノーメイク隠すマスクをはずしたらあざわらうよな猫ひげのあと イワタヒロコ
イワタさんのこの歌の「猫ひげ」が面白いですよね。「あざわらう」というのも〈だれ〉が〈だれ〉に対してあざわらっているのか、それはひげが主体なのか、猫が主体なのか、マスクをかけていたわたしかそれともそれをみたあなたか。その交錯が素敵です。
シナモンという名のコザクラインコなり桜の巨木よ養分とせよ 野川忍
村上春樹の小説では猫が「イワシ」と名付けられていましたが、コザクラインコに「シナモン」と名付けられているのも面白いです。シナモンという常緑樹と桜の巨木という少しズレつつも木と木が死んだ生命を介して響きあう。
寸前に蹴られたバスケットボールが黙祷のなか跳ねつづけてる 大嶋航
大嶋さんの連作「スパゲティ」。どの歌も言語的跳躍が素敵で面白く読みました。バスケットボールの跳ねる音と抑圧された会場のなかの命の対比が面白いなと思ってこの歌を選んでみたのですが、「フリーペーパー」や「市立図書館」、「信号」「飛行機」の歌もすてきでした。
眠ったら絡めし足も散れ散れに正しきほどに同じ夢見ず こぎともり
短詩のなかの眠りってとても興味があるのですが、正しいほどに同じ夢をみないって不思議ですよね。たぶん完全にぴったり愛し合っていたとしても、同一の夢はみられない。そうおもうと、ねむるって孤独なんだよなあって思います。そんなねむる切ない素敵さを教えてくれる歌です。
ごめんまた今度ねのまた今度ねに期待してまた送信をする 杉城君緒
この歌のことばのすごくもたれる感じが素敵だと思うんですよね。今度がはっきりとくくりだせない感じにわたしとあなたとの関係性があらわれているきがする。そして「送信をする」の結句の明瞭性もなんだか切なくてすてきです。
ISETANの香水売りが駆け出して苦みを刻んだ柑橘の恋 倉太郎
倉さんの歌を読んで、あ、そうか、あの香水売りのお姉さんたちもそういえば駆け出すことがあるんだなと気づきました。たぶん、走ったり恋をしたり追いかけたり追いかけられたりみかんを食べたりしている。そうした不動の場所にダイナミックな動をもちこんでいるのがすてきです。自己紹介もおもしろかったです。人生の険しさとチャーシュー。
夢の中で吾の手をつつむ君の指の長さと温もり覚えてをりぬ 大黒千加
「指の長さ」という発見がすごく素敵でした。夢の中での温もりってなんとなく覚えているんですが、指の長さっていう具体性は夢のなかで、よし見よう! という態度じゃないと覚えていられないと思うんですね。その、語り手の態度が君への想いになっていてすてきだなあとおもいました。
冬のそらリニアのニュース流れたりおわりもあればはじまりもある 北村マキコ
ドラマ『時効警察』をみていたら署長の岩松了が「はじまれば、おわる」といっていて、そうだなって今でも強く覚えているんですよ。だけど、「おわりもあればはじまりもある」んですよね。で、北村さんの歌では「リニアのニュース」にそれが重ねられている。そして「冬」には「春」もかかっている。いろんなつながりが素敵だなとおもいました。
何かひとつ完成させたい年頃でジグソーパズル趣味にしてみる 岩井曜
ジグソーパズルってたぶん未完の完みたいなところがあるのかなとも思うんです。完成させたとしても、また次のジグソーパズルがある。でもその未完の完のなかに年を重ねていくってそういうことだよってさりげなく重ねられている歌なんじゃないかなって思うんです。
「桃」という茶色いカレー屋おすすめは温玉乗っけた緑のカレー 桂ぐみ
「桃」というカレー屋さんがあったら私はとりあえずゆうじんにいうと思います。「桃」ってカレー屋さんがあったんだよ、と。しかも「茶色いカレー」なんだそこと。しかも「温玉」って黄色なんだよ、と。色のたのしさあふれるすてきな歌だとおもいました。
人間に聴こえぬ波長で鳴き交わしこわれることにした家電たち 三澤達世
『トイ・ストーリー』がもしホラータッチになったらこんな感じになるのかなとふっと思ってしまいました。家電なんだけれど「鳴く」という動詞が使われているのも、いきものめいていてこわいところです。アニメ『ザ・シンプソンズ』でイルカたちが人間を侵略する回がありました。
吹抜けのエスカレータをのぼりゆく老教員は紫煙のごとく 飯島章友
ただのけむりじゃなくて、タバコのけむりのようなくゆらせたけむり=紫煙であるところが妖気的でおもしろいなあと思いました。吹抜け/けむりという上へ上への視点の磁力もすてきです。
でけんことあかんことならなにひとつあらしまへんえおきばりやつしや 雨谷忠彦
このあいだ「おきばりやす」といわれてちょっとこわいなあと思ったんですが、ローカルな言語をあえて用いることで意味性を多重的に打ち出すことが可能です。相手に解釈コードの権利を渡さず、みずからのコードが簒奪されないようにしておくこと。それがレトリックとしてのローカルな言語なのかなあと思います。
ラジオから逃げるウサギで窓は春ダブリューダブリューダブリュー脱兎 都築つみ木
連作タイトルの「ナニガシカの可視化」にもあるように言葉遊びの感覚が次元のちがうモノ同士を出会わせる楽しい連作です。ラジオからよくダブリューダブリューってサイトのアドレスが流れてくるけれど、でもたしかにそこにウサギがことばのズレで派生してもいいよね、って納得しました。
人間歴五日の男に右側の出が良くないと指摘を受ける 大久保一布
生後五日目の赤ちゃんを「人間歴五日」っていう呼び方が面白いですね。「右側」や「指摘」という〈大人〉なタームを介して赤ちゃんが超越的な存在に昇華しています。赤ちゃんって超越者なのかも。かみさま。
あしたには友達がひとり減っている紅茶の茶葉を買って帰ろう 伊藤綾乃
「かもしれない」じゃなくて「減っている」という確定した未来。でもまだいまは「あした」ではなく「きょう」。だからわたしは「きょう」をしなければ。「紅茶の茶葉」という日常と非日常がいりまじる〈きょう〉。
よく晴れた風の強い日歩くには新しい靴と軽い決意と 寺西弓美
「軽い決意」がすてきです。軽さと決意って反比例しそうなのに、「軽い決意」と軽くことばの上でまとめられているところがいい。風の強さと決意の軽さの対照も。
川だった道を夜明けに歩くときくるぶしに聴く水鳥の声 茂泉朋子
「くるぶしに聴く」という聴覚と触覚の融合がすてきです。「川だった道」というのも、視覚と記憶が融合されている。そうした融合の自然さがいい。
海岸をくしけずりながら歩いて手のうちに残るは海の骨 水鹿糸
「海の骨」っていうのが「くしけず」ったあとに「手のうちに残る」からこそ、具体化されるプロセスが歌のなかで示されている。それがすてきでした。雲にも骨が、海にも骨が。
談笑のような青空 草原【ルビ:くさはら】でカホンに座りカホンを敲く 澤田順
カホンって座れるのが特徴だと思うんですが、だからこそ「談笑のような青空」という〈座〉のここちよい空間ができあがってるんだとおもいます。カホン、たたいてみたいなあ。
掌が「わたしすきになるのはいつもたのしいことがすきなひとだわ」 百々橘
このかぎかっこのことばのもたつき感がてのひらがなんだかいいそうなかんじですごくステキだと思いました。てのひらってうまくしゃべれなさそうな感じがしますよね。
さて冬を越してしまえへば生き物は生きねばならぬ影を濃くして 櫛木千尋
「影を濃くして」。自らの主体性だけでなく、主体性の裏にあるものも常に意識する対位法的な生。そういったステキな短歌の生を櫛木さんの歌のなかで、いまこの春のまっただなかから確認し、この前号評を終わりにしたいと思います。
素敵を、ありがとうございました!
ただ、誌面だとマックスで一万字と文字数が限られていてしまったため、省略するまえのもともとのロングバージョンをWeb版として載せておこうとおもいます(これより以下は、ロングロング前号評のすべてです。これより以下では、もう案内役のわたしはあらわれません。それでは、また、別の機会に・別の場所で、お会いいたしましょう)。
※ ※ ※
素敵って、すてき。~四月号のステキをめぐって~ 柳本々々
短歌って、すてきだなって思うんですね。ただふだん具体的にすてきを考えたことがなかった。ぼんやりとしかすてきと向き合ったことがなかった。ポッキーを食べながら、ああすてきだね、とすてきについて軽く考えていたところがあった。おざなりだった。
だから今回こういう機会をいただいたのでできるだけ〈すてき〉と泥臭く取り組んでみたいと思うんです。できるだけふかく泥のなかにもぐりこむように。その泥の底でできるだけ多くの〈すてき〉を採掘できるように。
たとえば隣り合わせた少女がもたせかける頭のおもさに希望をかんじる 後藤葉菜
後藤さんの歌です。ものすごい定型からのあふれなんですがそれが「少女」の「頭のおもさ」になっていて、「希望」という〈重力〉へとつながっています。定型の過剰な使い方が素敵です。
みるちや色つてどんな色なの訊いてきた瞳の奥遙かうねり出す海 こずえユノ
こずえさんの歌です。「みるちや色」ってたぶん一般的にはわからないと思うんです。私は少なくともわからない。茶色なのかなあとは思うんだけれど。でもその〈知らない〉ことが可能性の吹き溜まりになっていく歌です。福田若之さんの俳句「歩きだす仔猫あらゆる知へ向けて」に通ずる素敵さがあります。
小林が来たら隠せよワサビ味ばかり選んで食べまくるから 小坂井大輔
私、小坂井さんの〈小林〉シリーズって好きなんですね。小林をシリーズ化しようと思てることが既に素敵だと思ってるんですが、その小林のパースペクティヴが一点に定まらないように小林の可能性が展開=転回されていく。小林的素敵さがあります。
地下鉄が私鉄に変わり終点にサブウェイがある町並みを行く 倉持貴尋
倉持さんの歌は、定型のベクトルと語り手が移動し、語り手をめぐる状況が推移していく様子が重ねられているのが素敵だと思いました。サブウェイ、私好きなんですが、裏の意味で〈地下鉄尽くし〉な歌なのも素敵です。
知っていた道を見つけられずに独り言をこぼして歩く 原田洋子
原田さんの歌は自らの記憶が迷宮化しているところが素敵です。原田さんの連作「春」はどことなく自らの〈記憶の揺れ〉と出会ってしまう連作なんですね。「記憶の奥の春」に、出逢うこと。
あらわれるそばからきえるあわ雪のこんな日に使いきる消しゴム 佐藤弓生
佐藤さんの歌を読んであらためて気がついたんですが、消しゴムを使いいきる日って劇的なんですよね。ドラマチックなんです。ありふれているけれど、でもそうそうないことです。それが「あわ雪」の消尽と対照的にすぐに消える/なかなか消えない/でもぜんぶ消える位相をかたちづくっています。きえるすてき。
あのひとのほんとのかおはどれだろう裏と表と甘い満月 那由多
那由多さんの歌の結語の「甘い満月」が効いていると思うんですよね。考えてみると、わたしたちってどれくらい月のおもてとうらをきちんと区分けしてみているのか、そもそもそのどちらかしかみたことないのか、そういった月に対する私たちの視座が「ほんとのかお」に掛かっていると思うんですよね。甘い素敵。
花火果て静かに呼吸【ルビ:いき】を整ふる世界捉えし画家の心よ 吉川満
吉川さんのこの連作「ホイッスラーによるテムズの花火」では、花火と記されている通り〈消え入る〉ということが主調音になっているように思うんですね。でもその〈消えた〉後の世界をもう一度立ち上げる「画家の心」がある。その消えた〈後〉の立ち上げ方が、出来事を言葉にする短歌と響きあって素敵です。
(いちばん綺麗なものを盗むしかない フラミンゴが川を渡った) とみいえひろこ
とみいえさんのこの歌の「フラミンゴが川を渡った」。以前から短詩のなかのフラミンゴがとても気になっています。これ、ショッキングピンクが踏み越えたという感じがするんですね。自分が踏み越えちゃいけないところを踏み越える意味合いがフラミンゴにはどこかしらあるのかなと。「盗む」と「フラミンゴ」の桃色の響き合い。
いつもの娘【ルビ:こ】平たい顔で袖つかみ おじちゃんあのね。ママが死んじゃったの。 池田幸生
池田さんの結句が大幅に定型をはみ出している一首です。レトリックと倫理の関係性について時々考えるのですが、この一首においてはレトリックを使わない、そして定型も守らないということがたぶんこの歌のひとつの〈倫理〉になっているように思うんです。短歌に納めないことが短歌として短歌を問うことになる。〈なに〉を〈どう〉歌えるのか、と。
ありのまま身柄投げ出すほかは無しカード地獄の思はぬ鉄鎖 兵站戦線
兵站さんのこの一首の「地獄」に注目してみたいんです。短歌において「地獄」が現れるとき、どれはどこかで寺山修司の〈地獄〉の修辞とつながっているのではないかとも思うんです。地獄のレトリックがどのようにいま・ここで機能するか。「カード地獄」には返しても返しても無限に連鎖する〈欠如〉の地獄があります。
星雲の縁のあたりにぶらさがる天体として眠りに落ちる 風野瑞人
風野さんのこの歌で素敵なのが「星雲の縁」という星雲に縁ってそういえばあったんだという〈端っこ〉の発見だと思うんですよね。「眠りに落ちる」ってたぶんそういう自分が普段意識できない場所へ入っていくことなんじゃないかなって思うんです。「ぶらさがる」「眠り」って素敵ですよね。
誰かしら名前に惹かれ頼んでたうす紫のムーンライトソーダ 田中有芽子
ムーンライトソーダって名前のソーダがあったらとりあえず頼んじゃうと思うんです。語り手の語法にもあらわれていますよね。「頼んでた」と。「(気がつけば)頼んでた」。それくらい素敵なソーダだった。「うす紫」というはかない具体性も素敵。
すたすたと診察台に上がる猫わたしは何を信じていいの 千春
診察台に上がるって考えてみるとちょっと非日常の行為だと思うんです。もしくは自らの主体を脱ぐような行為かもしれない。ところが猫はその境界を境界として感じずに上がってしまう。猫が境界線を語り手に問いかけている。その「猫」のありようからの「わたし」のゆらぎが素敵。
現実に帰ってゆくよ妖精がワンダランドは伊那市山寺 川合大祐
「大人のためのわらべうた」という連作のタイトル自体が「大人」と「わらべ」で逆説的な磁場をうんでいます。「妖精」という普通名詞と「伊那市山寺」というそれ以外ありえないほどに現実的な固有名詞の拮抗。〈現実〉ってもしかして〈名前〉からきているのかもしれませんね。え、でも、だとしたら〈現実〉は、仮構された〈現実・性〉でしかないのだろうか。と、問いかける連作。
ついうっかり素敵な恋をすりゃいいじゃん私と始めてみればいいじゃん 斎藤見咲子
短歌の中で「じゃん」をナチュラルに使うって結構難しいことだと思うんですね。でも「ついうっかり」からこの歌が始まっていることで「じゃん」がナチュラルな文体として構造的に機能している。それって素敵じゃんね、と思いました。
窓越しに横なぶりする雪の舞い死者も生者もうずもれている 江草義勝
ジェイムズ・ジョイスに「死者たち」っていう短編があって、ラストに雪が降って生者も死者も妻も妻の記憶のなかの死んだ恋人も妻のことを他者と感じ始めた私もすべてが雪で覆われる話なんですが、この歌でもわかるように「雪」って生死の境界を溶解し、ないまぜにするメディアなんですよね。
海底にたまつたへどろを掻き分けて愛の残骸探したが無い 新井蜜
新井さんの以前書かれていたいろんな場所に「愛をさがす」連作とても好きだったんですが、ここでは「愛の残骸」を探しています。その意味では愛はとりあえず〈進化〉している。残骸だけれども。でも、ここでも、また〈無い〉。もしかしたら愛は〈さがすこと〉そのものにおいて明滅しながら浮上する〈なにか〉なのかもしれない。
いつまでもやまない雨を眼前に踏みしだかれる花びらを見る 雨宮司
花びらって降ってくるもの、散るものに焦点化しやすいと思うんですが、雨宮さんの歌の語り手は「踏みしだかれる」花びらに視点が向いている。それがおそらくは語り手の〈内面〉のさりげない投影のようでもある。
夜に総括をするのを止めてみるのも一時的にはありかもな 辻井竜一
連作タイトルは「バニラ・スカイ」。バニラスカイは幻想という意味もあるから、〈総括〉も幻想としてのアイデンティティの担保かもしれない。
結局はアトムの子だろベニヤ板ぶちぬくほどにくやしかりけり 山下一路
原子力は〈みえない〉かたちで「放射能」として私たちの生活に強い影響を与えた。そのときこの歌のように〈くやしさ〉が逆に〈物質化〉するのではないか。
甘くなりたい。あさっては誕生日。いちご100%で生きる 藤本玲未
〈句点(。)〉が、自分が自分に呼びかける会話体として、或いは句点の○、%の○がイチゴのようで、イチゴのレトリックの素敵さがある。
サンタよりぬらりひょんがいればいいこの世は忘れたものばかりかも 奥坂竺人
「サンタ」という〈言語存在〉でありながら商品的に具象化されていく〈老人妖精〉と、やはり〈言語存在〉でありながら属性をもたない〈老人妖怪〉。
サンダルを脱いで夢中で逃げるとき溶接工と目が合っている 柴田瞳
メディアのなかの犯罪であっても〈わたし〉に迫るリアリティが特徴的だと思うんです。いかなる状況でもふいに〈わたし〉が生身にたちかえる瞬間がある。
メメント・モリ…花見の菰に寝転んで見上げた空に若き母さん 久保明
小津夜景「狩りくらやメメント・モリをいねむりす」を思い出した。〈寝る〉とメメント・モリが共鳴しあっているのが興味深い。
締め切りとふ負えぬシメール間近にて共に分かつか硝子屋の悲運 乗倉寿明
連作内で語り手が漢語文体からだんだんひらく文体になっていっている、文字通り語り手自身がひらいていく過程がある。連作のカタチのすてきさ。
望みってなんだったっけ 本を閉じ 賞状よりも手紙が欲しい 榎田純子
「なんだったっけ」が一字アキとして視覚化されている。論理化できない思考処理の過程が空白。「手紙」という誤配される言語を欲している語り手の気づき。
関わりのうすいひとから夢の中リップクリーム塗ってもらいぬ ミカヅキカゲリ
「関わりのうすいひと」が「夢」に出てきてるのが面白い。夢の中に出てくるなんて関わりが〈濃厚〉じゃないですか。しかも身体的〈痕跡=感触〉としての「リップクリーム」も塗ってもらう。そうした関係のやつぎばやのグラデーションがステキ。
話すこと見つからなくて窓の外体温計が鳴るまでの雲 本多忠義
ふいにできてしまった他者とのエアポケットがすてきですよね。でもそれも限定された時間のなかであって「体温計が鳴るまで」なんですね。そしてその限定のなかでだけみることのできる「雲」もある。
雲の骨のアラをばらまき夕空はブイヤベースを煮染めていたり 井辻朱美
雲に骨があるんだというまず初句での驚きです。その雲の身体性から、夕空まるごとを食材に変えていく〈食べる行為〉への転轍があります。雲にも、夕空にも、〈肉〉となる部分があって、それを〈肉化〉できる語り手がいる。ことばのスープ。
エメラルドグリーンのプール 冬の日と無縁なものの一例として 大澤サトシ
短詩においてみられる〈~の一例として〉構文、とても気になっています。この歌では、「エメラルドグリーンのプール」という使われていないプールがあえて〈美しく〉歌われることによって冬とは無縁ながらも語り手とことばの上で縁を結んでいくという、〈つなぐ〉ことの素敵さがあります。
注射器にあかぐろくほとばしりゆくいのちあり我ならぬいのちが 佐藤元紀
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」という斎藤茂吉の歌を思い出しました。佐藤さんの歌では、茂吉のラインとしての赤い命が、反転されるかたちで「我ならぬいのち」になる。その反響の仕方が面白い。
鳥と話すといはれてよりそつとそつと「あぶないからねむかうでまつてて」 笠井烏子
歴史的仮名遣いで口語体で短歌をつくると素敵な〈もたつき〉がことばの触感として出るように思う。この歌は「鳥と話す」と語り手が言われているようなのでそうしたマジカルな感じがことばのもたつきによってより魔術的になっていると思いました。
ふくれっ面怖いからねえ笑ってよ一、二、三分ほらもう笑顔 福島直広
「一、二、三」ならよくあるんだけれど、「一、二、三分」って《わりと》長いんですよね。短歌の時間って31音だから、10秒ぐらいなんだけどこの短歌の時間性は、〈三分間〉になっている。笑顔までがわりと長い。その長さを逆に出し抜く面白味として感じました。
籐椅子に回収できませんシール受け入れられぬ人がまたいた 有田里絵
回収できませんシールを貼られたゴミ置き場の籐椅子。それをひとの〈受容〉の問題として昇華しているこの歌の視座が面白い。それが「籐椅子」という具体的名称をもった椅子として持ち主が愛着がある椅子だったんだなあと4音で即座にわかるのも素敵です。
立春の陽に百日紅は照らされて君の不在をどうしたらいい 河合弘枝
この連作「二〇一五牧水紀行」では〈牧水の不在〉がテーマとして浮かび上がってると思うんですが、この歌ではその不在が「君」と変換されることで身近なひとや親しいひとも代入可能になっているところにこの歌の本当に切実な「どうしたらいい」があると思うんです。その切実さが素敵でした。
日記でも調律します猫からのひっかき傷をためらい傷と 小野田光
「日記を調律」するって面白い表現ですよね。しかもこの「でも」という微妙な語法がいいですよね。日記じゃなくてもいいんだけれど、まあでも「日記でも」調律しようかっていう。この短歌自体の〈ためらい〉の視座が面白い。
「自由ってかくかくしてて自由って感じじゃないわ、そう思わない?」 田中ましろ
昔、町田さんってひとに出会ったときになんてかくかくしてる□ばかりの名前のひとなんだって思ったことがあるんですが、そうか「自由」もかくかくしてますね。田中ましろさんの青空に軟禁される歌、好きなんですが、ましろさんの短歌のなかの〈自由/不自由〉のテーマを感じます。
赤き箱つむオートバイ郵便をはこびてゆきぬ雪降る街を 嶋田恵一
ふだんの街の赤い郵便屋さんと雪の中の郵便屋さんはあらためて違うものなんだなと思いました。白と赤の対比と、雪という静と、赤い郵便屋さんの動との対立など、対比の重層性がすてきな歌です。
今日もまた許しを得ないと進めないところで記すぼうけんのしょは 壬生キヨム
ドラゴンクエストって短詩の関係ってときどき考えるんです。「ぼうけんのしょ」。許しを得ないところでセーブしているってところが面白い。もしかすると〈死ぬ〉かもしれないわけです。許しが出ずに。象徴的に語り手はこれから他者とのかかわり合いで〈死ぬ〉かもしれない。ドラゴンクエストはもしかしたら〈死〉をめぐる物語なのかも。
どこまでも飛んでいけるという言葉だけが飛んでく 春の円盤 広央ヒロ
「春の円盤」がぐっときました。同時にこの円盤がUFOだったらいいなあとも思いました。UFOに「春の」って季節があったらちょっとステキな感じしませんか。そのひとにとってはUFOが季語になるわけです。言葉が飛ぶ、というのも実はそんなに悪いことでもないんじゃないかって語り手は知っていたりするのかも。
流れゆく水どうしてもこうしたい選択それを間違えてても 鈴木智子
この連作「アラブの風呂」は「あわい」や「曖昧」のなかでもそれでも生じてくる確固とした〈たしかさ〉がテーマになっているように思うんです。「間違えてても」「選択」「したい」〈たしかさ〉。それが「アラブの風呂の壁の冷たさ」として現れてしまうことの触感としての〈たしかさ〉。わたしの外からやってくる力強さとしてのたしかさ。
結婚せず子も産まないでいるけれど不思議にわたしは変わっていった 柳谷あゆみ
連作タイトル「ひまについて」。この〈ひま〉を積極的に見いだすことがあえて賭けられているのかなとも思ったんです。「結婚」や「出産」をしない〈わたし〉は社会のシステムから疎外されているかもしれないけれど、でもその社会の〈ひま〉のなかで〈不思議な成長〉をしていく〈わたし〉がいる。じゃあ〈それ〉はなんだろう、その〈ひま〉を短歌は実は指摘してしまうんじゃないか。バートルビー。
エイエンと呼ぶほどの時を泳ぎ来て地球に着いた気のする寝覚め 前田宏
前田さんの歌をみて初めて気がついたんですが、「エイエン」と「エンエイ」ってちょっと似てるんですよね。えいえんには笹井宏之さんの有名なえーえんの歌もあるんだけれど、えいえんというのは永遠としての時間性よりもことばそのものに付随する「エイエン」「えーえん」というような意味からの時間性なのかなって思いました。
メルトダウンといふ語の甘さ思ひつつ君よ真白き床にて眠れ 小佐野彈
「メルトダウン」ってこの歌に「甘さ」と書いてあるようにたとえば「メルトチョコレート」みたいにどこか換喩としての隣接しあう〈甘さ〉がある。だからそのことばとでも実際に起きてる出来事の距離感の間合いを歌っている歌だと思うんです。そのときの「真白き」というカラーをどうとらえるかが大事な歌になるんじゃないかなと思います。
目薬の差し方が変と云われて宇宙人たちごめんごめんね 三好類子
たぶん〈ただしい〉目薬の差し方は誰もしらないんだけれど、「宇宙人たち」が出てくることによってその〈ただしさ〉自体が空転してるのが面白い歌なんじゃないかなって思うんですね。語り手が謝ってるのも素敵ですよね。宇宙人に対していいひとであるところがすてきです。
四肢のうち何とはなしに三本を動かし時速五十キロにいる 稜崎瑞歩
不思議なおもしろさのある歌なんですが、「時速五十キロ」という明瞭な具体性と、「三本を動かし」という不明瞭な具体性とがあいまってインパクトある〈からだ〉と〈速度〉の歌になっていると思います。あえて頭=理性は動かしていないような。解体されるすてきさ。
沼そこにしずめしとけいかけなおしふじなる山にときたずねおる コトハラアオイ
ほとんどがひらがなであることに注目したいんです。「沼」や「山」といったカテゴリーとしての場所だけが漢字である。あとは意味が即座に分節しがたいひらがなでできている。それがこの歌のゆったりした時間性なんじゃないかなって思いました。山に時間をたずねるってきっとそれだけの時間性なんだろうなあって。
白黒をつけてしまえば後がない その場しのぎも明日への一歩 島坂準一
短歌には〈膝ポン短歌〉または〈なるほど短歌〉というものがありますが、私は〈膝なで短歌〉という読むとやさしく生きていけるような短歌があるんじゃないかと思っているんですね。で、島坂さんのこの歌、グレーゾーンでいいんだよという歌ですよね。姑息=その場しのぎを積極的にしていこうよ、と膝をなでてくれるようなやさしさが素敵だと思いました。
わたくしは「NULL」を意味する記号なり意志を持たずに意味を持たずに 吾妻利秋
吾妻さんの連作タイトルは「MADE IN 黄泉の国から」なんですが、「NULL」とは「ゼロ」さえも意味を持ってしまうから、「NULL」という記号でなにもないことをあらわそうとするプラグラミング言語です。その〈なにもなさ〉が「黄泉の国」と呼応している。でもそれがメイドインというやはりどこかプログラムやシステムが関わっているところが面白い歌だなあと思いました。
黒蜜が征服をしたあんみつをくずしくずし新居のはなし 牛島裕子
スイーツのなかでも「征服」が起きているんだという視点が面白いですよね。黒蜜ってたしかに植民化していくように、糖度の帝国で浸食していきますもんね。で、それが「新居のはなし」というややシリアスなはなしにつながっていく。だれと住むのか、だれが買うのか、だれになるのか、〈わたし〉は。
闇雲に突き進んでいるようですが脳内会議の真っ最中よ 米村尚子
『脳内ポインズンベリー』というマンガがあるけれど、最近マンガにどうも脳内会議が多いように思うんですね。でもマンガに多ければそれは連鎖的に短詩も反応していくのではないか。そんなふうにも思うんです。『脳内ポインズンベリー』から学べるのは「脳内会議」にも「闇雲」が訪れるということです。だからもしかしたらこの短歌の脳内会議にも、という少し緊張感も。
ほんの1秒むねをはるきみ 巻き戻し・早送りされる駅に出現 杉山モナミ
1秒っていう視覚の感覚ってデジタルな感覚だと思うんですね。この歌で面白いのはそのデジタルが「巻き戻し・早送りされる」と継ぎ足されることで、デジタルのふりはばが現出してくるということです。それは〈わたし〉から〈きみ〉へのたぶん〈ふりはば〉にもつながってくる。出現。
落ちていく飛行機雲に糸結び取り返せない過去のことなど 白糸雅樹
宮崎駿『風立ちぬ』のエンディングは荒井由実「ひこうき雲」でしたが、『風立ちぬ』が亡霊を出すことで取り返せない過去をつなぎとめ(或いはごまかしてしまっ)たアニメなら、白糸さんの歌は取り返せない過去を過去としてなんとか〈ことば〉の上で「結」ぼうとする歌のように思うんですね。それでもたぶん「落ちていく」のだときっと語り手はわかっているのだけれども、でも「糸結び」をうたってみる。その分節をつくってみる。
ノーメイク隠すマスクをはずしたらあざわらうよな猫ひげのあと イワタヒロコ
イワタさんのこの歌の「猫ひげ」が面白いですよね。「あざわらう」というのも〈だれ〉が〈だれ〉に対してあざわらっているのか、それはひげが主体なのか、猫が主体なのか、マスクをかけていたわたしかそれともそれをみたあなたか。その交錯が素敵です。
シナモンという名のコザクラインコなり桜の巨木よ養分とせよ 野川忍
村上春樹の小説では猫が「イワシ」と名付けられていましたが、コザクラインコに「シナモン」と名付けられているのも面白いです。シナモンという常緑樹と桜の巨木という少しズレつつも木と木が死んだ生命を介して響きあう。
寸前に蹴られたバスケットボールが黙祷のなか跳ねつづけてる 大嶋航
大嶋さんの連作「スパゲティ」。どの歌も言語的跳躍が素敵で面白く読みました。バスケットボールの跳ねる音と抑圧された会場のなかの命の対比が面白いなと思ってこの歌を選んでみたのですが、「フリーペーパー」や「市立図書館」、「信号」「飛行機」の歌もすてきでした。
眠ったら絡めし足も散れ散れに正しきほどに同じ夢見ず こぎともり
短詩のなかの眠りってとても興味があるのですが、正しいほどに同じ夢をみないって不思議ですよね。たぶん完全にぴったり愛し合っていたとしても、同一の夢はみられない。そうおもうと、ねむるって孤独なんだよなあって思います。そんなねむる切ない素敵さを教えてくれる歌です。
ごめんまた今度ねのまた今度ねに期待してまた送信をする 杉城君緒
この歌のことばのすごくもたれる感じが素敵だと思うんですよね。今度がはっきりとくくりだせない感じにわたしとあなたとの関係性があらわれているきがする。そして「送信をする」の結句の明瞭性もなんだか切なくてすてきです。
ISETANの香水売りが駆け出して苦みを刻んだ柑橘の恋 倉太郎
倉さんの歌を読んで、あ、そうか、あの香水売りのお姉さんたちもそういえば駆け出すことがあるんだなと気づきました。たぶん、走ったり恋をしたり追いかけたり追いかけられたりみかんを食べたりしている。そうした不動の場所にダイナミックな動をもちこんでいるのがすてきです。自己紹介もおもしろかったです。人生の険しさとチャーシュー。
夢の中で吾の手をつつむ君の指の長さと温もり覚えてをりぬ 大黒千加
「指の長さ」という発見がすごく素敵でした。夢の中での温もりってなんとなく覚えているんですが、指の長さっていう具体性は夢のなかで、よし見よう! という態度じゃないと覚えていられないと思うんですね。その、語り手の態度が君への想いになっていてすてきだなあとおもいました。
冬のそらリニアのニュース流れたりおわりもあればはじまりもある 北村マキコ
ドラマ『時効警察』をみていたら署長の岩松了が「はじまれば、おわる」といっていて、そうだなって今でも強く覚えているんですよ。だけど、「おわりもあればはじまりもある」んですよね。で、北村さんの歌では「リニアのニュース」にそれが重ねられている。そして「冬」には「春」もかかっている。いろんなつながりが素敵だなとおもいました。
何かひとつ完成させたい年頃でジグソーパズル趣味にしてみる 岩井曜
ジグソーパズルってたぶん未完の完みたいなところがあるのかなとも思うんです。完成させたとしても、また次のジグソーパズルがある。でもその未完の完のなかに年を重ねていくってそういうことだよってさりげなく重ねられている歌なんじゃないかなって思うんです。
「桃」という茶色いカレー屋おすすめは温玉乗っけた緑のカレー 桂ぐみ
「桃」というカレー屋さんがあったら私はとりあえずゆうじんにいうと思います。「桃」ってカレー屋さんがあったんだよ、と。しかも「茶色いカレー」なんだそこと。しかも「温玉」って黄色なんだよ、と。色のたのしさあふれるすてきな歌だとおもいました。
人間に聴こえぬ波長で鳴き交わしこわれることにした家電たち 三澤達世
『トイ・ストーリー』がもしホラータッチになったらこんな感じになるのかなとふっと思ってしまいました。家電なんだけれど「鳴く」という動詞が使われているのも、いきものめいていてこわいところです。アニメ『ザ・シンプソンズ』でイルカたちが人間を侵略する回がありました。
吹抜けのエスカレータをのぼりゆく老教員は紫煙のごとく 飯島章友
ただのけむりじゃなくて、タバコのけむりのようなくゆらせたけむり=紫煙であるところが妖気的でおもしろいなあと思いました。吹抜け/けむりという上へ上への視点の磁力もすてきです。
でけんことあかんことならなにひとつあらしまへんえおきばりやつしや 雨谷忠彦
このあいだ「おきばりやす」といわれてちょっとこわいなあと思ったんですが、ローカルな言語をあえて用いることで意味性を多重的に打ち出すことが可能です。相手に解釈コードの権利を渡さず、みずからのコードが簒奪されないようにしておくこと。それがレトリックとしてのローカルな言語なのかなあと思います。
ラジオから逃げるウサギで窓は春ダブリューダブリューダブリュー脱兎 都築つみ木
連作タイトルの「ナニガシカの可視化」にもあるように言葉遊びの感覚が次元のちがうモノ同士を出会わせる楽しい連作です。ラジオからよくダブリューダブリューってサイトのアドレスが流れてくるけれど、でもたしかにそこにウサギがことばのズレで派生してもいいよね、って納得しました。
人間歴五日の男に右側の出が良くないと指摘を受ける 大久保一布
生後五日目の赤ちゃんを「人間歴五日」っていう呼び方が面白いですね。「右側」や「指摘」という〈大人〉なタームを介して赤ちゃんが超越的な存在に昇華しています。赤ちゃんって超越者なのかも。かみさま。
あしたには友達がひとり減っている紅茶の茶葉を買って帰ろう 伊藤綾乃
「かもしれない」じゃなくて「減っている」という確定した未来。でもまだいまは「あした」ではなく「きょう」。だからわたしは「きょう」をしなければ。「紅茶の茶葉」という日常と非日常がいりまじる〈きょう〉。
よく晴れた風の強い日歩くには新しい靴と軽い決意と 寺西弓美
「軽い決意」がすてきです。軽さと決意って反比例しそうなのに、「軽い決意」と軽くことばの上でまとめられているところがいい。風の強さと決意の軽さの対照も。
川だった道を夜明けに歩くときくるぶしに聴く水鳥の声 茂泉朋子
「くるぶしに聴く」という聴覚と触覚の融合がすてきです。「川だった道」というのも、視覚と記憶が融合されている。そうした融合の自然さがいい。
海岸をくしけずりながら歩いて手のうちに残るは海の骨 水鹿糸
「海の骨」っていうのが「くしけず」ったあとに「手のうちに残る」からこそ、具体化されるプロセスが歌のなかで示されている。それがすてきでした。雲にも骨が、海にも骨が。
談笑のような青空 草原【ルビ:くさはら】でカホンに座りカホンを敲く 澤田順
カホンって座れるのが特徴だと思うんですが、だからこそ「談笑のような青空」という〈座〉のここちよい空間ができあがってるんだとおもいます。カホン、たたいてみたいなあ。
掌が「わたしすきになるのはいつもたのしいことがすきなひとだわ」 百々橘
このかぎかっこのことばのもたつき感がてのひらがなんだかいいそうなかんじですごくステキだと思いました。てのひらってうまくしゃべれなさそうな感じがしますよね。
さて冬を越してしまえへば生き物は生きねばならぬ影を濃くして 櫛木千尋
「影を濃くして」。自らの主体性だけでなく、主体性の裏にあるものも常に意識する対位法的な生。そういったステキな短歌の生を櫛木さんの歌のなかで、いまこの春のまっただなかから確認し、この前号評を終わりにしたいと思います。
素敵を、ありがとうございました!
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