【感想】姉をおくる 脣は ゆ が む 徳田ひろ子
- 2014/06/11
- 12:20
姉をおくる 脣は ゆ が む 徳田ひろ子
【口(くちびる)を奪われた語り手】
眼にした瞬間気になってしまう句だと思うんですが、なにが気になるかといえば、それは二点にまとめられるようにおもうんです。
ひとつめは、唇が「脣」と常用漢字ではない「くちびる」が選択されている点。
二点目は、どうあがいても試行錯誤しても定型にまったくおさまらない点。
ひとつめの、「脣」に関していえば、語り手が「唇」
ではなく、「脣」を選択するしかなかった理由があるはずです。「脣」が採用されることによってこの句の雰囲気がどう変わってくるのか。
ひとつは、「口」が消えてしまうことです。ここでなんとしてもあてはまらない定型とも関連してくるのですが、この句というのは定型にそって口にだしてリズミカルに詠もうとするとかならず挫折する構造になっています。つまり、この句からは「口」にまつわるいっさいが奪われているんです。それは語り手自身が「脣」がゆがんでいるからであり、この句を詠もうとしても詠めなかったという点にあるようにおもうんです。語り手はこの句を詠みつつも、断裂するような一字空けの表記が示唆するように口に出してうまく唱えることができていません。だから読み手もこの句に接した瞬間、「口」を奪われてしまう。この句は「姉をおくる」という行為に対して定型にそってうまく口に出されることを拒否しています。その意味で「姉をおくる」に切実さが含まれています。
この句のおどろくべき点はそういった語り手が定型をあえて拒否するということにおいて、語り手の心情を語っている点にあると思うんです。その意味で、この句は、定型にきっちりおさまっている句よりも、定型的だとおもいます。定型があるからこそ定型の断裂が浮上し、そしてその定型の断裂によって「姉をおくる」ことの切実さがあらわれてきます。この句はそういう句ではないのかなと思います。
さいごに、それでも「唇」と「脣」の共通点はなんでしょうか。それは「辰」としての「振え=ふるえ」です。くちびるはどちらの漢字を選択しても、「ふるえ」ることがその本義にあります。口を奪われつつ、ふるえる語り手は一字あけをし、ゆがみつつも、それでもなにかを詠もうとしています。口を特権化する定型を拒否しつつも、それでも川柳という定型詩によって語り手は「姉をおくる」ことをうけいれがたくも、ふるえつつ、うけいれようとしているようにおもいます。川柳を詠むことの意味は、語り手にとってはおそらくそこにあるんだとおもうんです。川柳はそれでも・にもかかわらず〈どこか〉へはたどりつくための〈どこでもドア〉としての機能ももっています。〈どあ〉というかたちですこしくゆがんだ経由をとりながらも。
自動どあ開き百万本のバラの中 徳田ひろ子
【口(くちびる)を奪われた語り手】
眼にした瞬間気になってしまう句だと思うんですが、なにが気になるかといえば、それは二点にまとめられるようにおもうんです。
ひとつめは、唇が「脣」と常用漢字ではない「くちびる」が選択されている点。
二点目は、どうあがいても試行錯誤しても定型にまったくおさまらない点。
ひとつめの、「脣」に関していえば、語り手が「唇」
ではなく、「脣」を選択するしかなかった理由があるはずです。「脣」が採用されることによってこの句の雰囲気がどう変わってくるのか。
ひとつは、「口」が消えてしまうことです。ここでなんとしてもあてはまらない定型とも関連してくるのですが、この句というのは定型にそって口にだしてリズミカルに詠もうとするとかならず挫折する構造になっています。つまり、この句からは「口」にまつわるいっさいが奪われているんです。それは語り手自身が「脣」がゆがんでいるからであり、この句を詠もうとしても詠めなかったという点にあるようにおもうんです。語り手はこの句を詠みつつも、断裂するような一字空けの表記が示唆するように口に出してうまく唱えることができていません。だから読み手もこの句に接した瞬間、「口」を奪われてしまう。この句は「姉をおくる」という行為に対して定型にそってうまく口に出されることを拒否しています。その意味で「姉をおくる」に切実さが含まれています。
この句のおどろくべき点はそういった語り手が定型をあえて拒否するということにおいて、語り手の心情を語っている点にあると思うんです。その意味で、この句は、定型にきっちりおさまっている句よりも、定型的だとおもいます。定型があるからこそ定型の断裂が浮上し、そしてその定型の断裂によって「姉をおくる」ことの切実さがあらわれてきます。この句はそういう句ではないのかなと思います。
さいごに、それでも「唇」と「脣」の共通点はなんでしょうか。それは「辰」としての「振え=ふるえ」です。くちびるはどちらの漢字を選択しても、「ふるえ」ることがその本義にあります。口を奪われつつ、ふるえる語り手は一字あけをし、ゆがみつつも、それでもなにかを詠もうとしています。口を特権化する定型を拒否しつつも、それでも川柳という定型詩によって語り手は「姉をおくる」ことをうけいれがたくも、ふるえつつ、うけいれようとしているようにおもいます。川柳を詠むことの意味は、語り手にとってはおそらくそこにあるんだとおもうんです。川柳はそれでも・にもかかわらず〈どこか〉へはたどりつくための〈どこでもドア〉としての機能ももっています。〈どあ〉というかたちですこしくゆがんだ経由をとりながらも。
自動どあ開き百万本のバラの中 徳田ひろ子
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想