【感想】恋人の臍縦長に花の雨 澤田和弥
- 2015/07/08
- 12:30
恋人の臍縦長に花の雨 澤田和弥
【へそをめぐる対立】
澤田さんの句集『革命前夜』からの一句です。
さきほど〈へそ〉をめぐる記事を書いたのでへそつながりということでもあって選んでみました。
さっきの子規のへそのうえに天の川があるというのは、こういう言い方をあえてしてみれば、ベッドで寝こんでいるじぶんのへその上に天の川があるわけですから、非リア充の句、です。
織姫と彦星が会っている日なのに、じぶんは! というへそな気分があるわけです。
で、対してこちらのへその句は、「恋人のへそ」というじぶんのへそでも他者のへそでもない、親密な他者のへそをめぐる句なので、あえてやはりこんないいかたをしれみれば、リア充句といういいかたもできそうです。
「恋人の臍」に思いを寄せられる、それが詠める状況というのも、やはりさきほどの子規の句のへそと天の川のきょりかんをめぐったように、〈きょり〉の問題です。
その〈わたしの視線〉と〈恋人のへそ〉の〈きょりかん〉は、いっしょにいった流れるプールの問題かもしれないし、同棲生活の問題かもしれないし、体位の問題かもしれない。
ともかくここでは「へそ」が「たてなが」になっていて、ある動態を示していることが大事なのではないかとおもいます。
このへそ的動態のなかで恋人と語り手は暮らしている。そしてそれを「縦長の」春の雨が、そのふたりを〈たて〉でカヴァーしていく。
かんがえてみると、子規は横のへその句で、澤田さんのはたてのへその句なわけです。グラビアアイドルのへそは、基本的に姿勢をのばすので、〈たて〉です。
へそが横になっている状態というのは、子規や朔太郎や乱歩やワーニャおじさんのように、もしかしたら、必然的だらしなさとともにねむる身体のへそなのかもしれない。
だとしたら、たてやよこというその2音そのものに、物語は宿っているはずです。
縦書きの国に生まれて雨降りは物語だと存じています 飯田和馬
【へそをめぐる対立】
澤田さんの句集『革命前夜』からの一句です。
さきほど〈へそ〉をめぐる記事を書いたのでへそつながりということでもあって選んでみました。
さっきの子規のへそのうえに天の川があるというのは、こういう言い方をあえてしてみれば、ベッドで寝こんでいるじぶんのへその上に天の川があるわけですから、非リア充の句、です。
織姫と彦星が会っている日なのに、じぶんは! というへそな気分があるわけです。
で、対してこちらのへその句は、「恋人のへそ」というじぶんのへそでも他者のへそでもない、親密な他者のへそをめぐる句なので、あえてやはりこんないいかたをしれみれば、リア充句といういいかたもできそうです。
「恋人の臍」に思いを寄せられる、それが詠める状況というのも、やはりさきほどの子規の句のへそと天の川のきょりかんをめぐったように、〈きょり〉の問題です。
その〈わたしの視線〉と〈恋人のへそ〉の〈きょりかん〉は、いっしょにいった流れるプールの問題かもしれないし、同棲生活の問題かもしれないし、体位の問題かもしれない。
ともかくここでは「へそ」が「たてなが」になっていて、ある動態を示していることが大事なのではないかとおもいます。
このへそ的動態のなかで恋人と語り手は暮らしている。そしてそれを「縦長の」春の雨が、そのふたりを〈たて〉でカヴァーしていく。
かんがえてみると、子規は横のへその句で、澤田さんのはたてのへその句なわけです。グラビアアイドルのへそは、基本的に姿勢をのばすので、〈たて〉です。
へそが横になっている状態というのは、子規や朔太郎や乱歩やワーニャおじさんのように、もしかしたら、必然的だらしなさとともにねむる身体のへそなのかもしれない。
だとしたら、たてやよこというその2音そのものに、物語は宿っているはずです。
縦書きの国に生まれて雨降りは物語だと存じています 飯田和馬
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