【お知らせ】「【歌〈と〉挿絵を読む】新鋭短歌シリーズ〈の〉挿絵をめぐる―鯨井可菜子/河上ののこ『タンジブル』〈と〉岡野大嗣/安福望『サイレンと犀』―」『BLOG俳句新空間 第21号』
- 2015/07/10
- 00:57
『 BLOG俳句新空間 第21号』にて「【歌〈と〉挿絵を読む】新鋭短歌シリーズ〈の〉挿絵をめぐる―鯨井可菜子/河上ののこ『タンジブル』〈と〉岡野大嗣/安福望『サイレンと犀』―」という文章を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回は、絵と短歌の関係を考えてみようとおもい、鯨井可菜子さんと河上ののこさんの『タンジブル』、岡野大嗣さんと安福望さんの『サイレンと犀』を取り上げてみました。
で、わたしはこの文章のなかで、『サイレンと犀』には犀(さい)がいない! と断言していたのですが、じつは、この『サイレンと犀』には、ディズニーランドの隠れミッキーのように、隠れサイがいます。わたしもみつけたときは、おののき、ふるえました。まずったな、と。
(あるながいぺらぺらしたものをめくったしゅんかん、わたしはおののいたのでした。わお、と)
ただ、だいじなことはですね、なぜサイが隠されていたのか、しかもそのさいは上にみられるように点線で、もはやかすかに、きえいるように、描かれている。じゃあそれはなぜなのか。なぜ大々的にさいがこの歌集でてこなかったのか。それはおそらくこの歌集の主調音や主題ともかかわってくる大切なことだとおもうんですね。
鯨井さんの歌集も、岡野さんの歌集もそうだとおもうんですが、じつは短歌も絵も〈なにか〉を描くことがたいせつなのではありません。〈なにか〉をしっかりと描くことがたいせつなのではなくて、じつは描こうとしたその〈なにか〉がこの〈わたし〉に成立してしまった、その〈事件〉がたいせつだとおもうのです。
描いたものはいずれ忘却され、きえさります。
でも、それが成立してしまった事件性は、それを成立させてしまった事件としてなりたたせたときに、記憶として残っていくはずです。
わたしは短歌とはそうした事件の圧縮された現場だとおもうのです。
そしてその事件の〈タンジブル(たしかさ)〉にふれようとしていてふれられえない、事件を言語化しようとしても sigh =溜息にしかならない。
それが、このふたつの歌集の〈事件〉なのではないかとおもうのです。
これがハイスピードカメラで記録した好きだと思い込む瞬間です 鯨井可菜子
もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね 岡野大嗣
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回は、絵と短歌の関係を考えてみようとおもい、鯨井可菜子さんと河上ののこさんの『タンジブル』、岡野大嗣さんと安福望さんの『サイレンと犀』を取り上げてみました。
で、わたしはこの文章のなかで、『サイレンと犀』には犀(さい)がいない! と断言していたのですが、じつは、この『サイレンと犀』には、ディズニーランドの隠れミッキーのように、隠れサイがいます。わたしもみつけたときは、おののき、ふるえました。まずったな、と。
(あるながいぺらぺらしたものをめくったしゅんかん、わたしはおののいたのでした。わお、と)
ただ、だいじなことはですね、なぜサイが隠されていたのか、しかもそのさいは上にみられるように点線で、もはやかすかに、きえいるように、描かれている。じゃあそれはなぜなのか。なぜ大々的にさいがこの歌集でてこなかったのか。それはおそらくこの歌集の主調音や主題ともかかわってくる大切なことだとおもうんですね。
鯨井さんの歌集も、岡野さんの歌集もそうだとおもうんですが、じつは短歌も絵も〈なにか〉を描くことがたいせつなのではありません。〈なにか〉をしっかりと描くことがたいせつなのではなくて、じつは描こうとしたその〈なにか〉がこの〈わたし〉に成立してしまった、その〈事件〉がたいせつだとおもうのです。
描いたものはいずれ忘却され、きえさります。
でも、それが成立してしまった事件性は、それを成立させてしまった事件としてなりたたせたときに、記憶として残っていくはずです。
わたしは短歌とはそうした事件の圧縮された現場だとおもうのです。
そしてその事件の〈タンジブル(たしかさ)〉にふれようとしていてふれられえない、事件を言語化しようとしても sigh =溜息にしかならない。
それが、このふたつの歌集の〈事件〉なのではないかとおもうのです。
これがハイスピードカメラで記録した好きだと思い込む瞬間です 鯨井可菜子
もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね 岡野大嗣
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