【感想】懸賞にあたってもうてあまがさが二時間おきにとどくめでたしめでたしや 吉岡太朗
- 2014/06/11
- 22:42
懸賞にあたってもうてあまがさが二時間おきにとどくめでたしめでたしや 吉岡太朗
【昔話のディスクールの波間に】
すごい歌だと思うんです。
懸賞にあたってまず傘が二時間おきに届くという状況が、すごい。
傘というのは基本的に一本あれば事足りるわけですから、二時間おきに、一日に12本も届いても困るわけです。
それはどういう傘かというと、すでに用途を放棄している過剰としての傘だとおもうんですよね。祝祭としての傘といってもいいかもしれません。
そしてその傘が、きちんとしかるべきところから懸賞当選という〈贈与〉のかたちをとって送られてくるところもポイントのようにおもいます。
つまりこのうたは、〈贈与の過剰〉のうたなんではないかとおもうんです。
結語は、「めでたしめでたしや」です。この「めでたしめでたしや」が結語に配備されたことによって読み手は、昔話の言説(ディスクール)を想起しつつ、このうたの語り手が、そうした昔話の説話論のなかでこのうたをうたっているのではないかとかんがえることもできるのではないかとおもうんですね。
昔話の言説とは、なんでしょう。それはさまざまな位相があるとおもうんですが、昔話の言説のひとつの側面に、〈過剰な贈与〉としてのハッピー・エンディングがあるように思います。桃太郎を想起しても、舌切り雀を想起しても、猿蟹合戦を想起してもいいんですが、いいこと・悪いことにかかわらずそこには〈過剰な贈与〉によって物語のカタルシスがつくられ終結にみちびかれるという構造があるようにおもいます。桃太郎のように大量の財産を鬼からなかば暴力的に収奪してのエンディングかもしれないし、舌切り雀のように大量の魑魅魍魎としての〈贈与〉かもしれない。ともかくそこには〈過剰な贈与〉としての〈贈与の過剰〉がこの二時間おきに届くあまがさのようにあるはずです。
ここでもういちど「めでたしめでたしや」に着目するならば、これはあまりに大幅な破調です。「めでたしや」の分だけ定型が決壊しているんですが、実はその決壊としての過剰こそがこのうたのポイントではないかとおもいます。
たしかこのうたは連のさいごに置かれていたとおもうんですが、そうした言語の過剰によって連がしめくくられることになります。昔話のディスクールに身をよせた語り手にとってはなによりも言語の過剰な贈与によってこのうたを、連を終わらせることが〈ハッピー・エンディング〉だったはずです。
そのような〈過剰の応酬〉を定型と関わらせること。それが「めでたしめでたしや」のディスクールを応用する語り手のもくろみだったようにさえ、おもうのです。
だれひとり殺さずだれにも殺されず生き抜くことができますように 吉岡太朗
【昔話のディスクールの波間に】
すごい歌だと思うんです。
懸賞にあたってまず傘が二時間おきに届くという状況が、すごい。
傘というのは基本的に一本あれば事足りるわけですから、二時間おきに、一日に12本も届いても困るわけです。
それはどういう傘かというと、すでに用途を放棄している過剰としての傘だとおもうんですよね。祝祭としての傘といってもいいかもしれません。
そしてその傘が、きちんとしかるべきところから懸賞当選という〈贈与〉のかたちをとって送られてくるところもポイントのようにおもいます。
つまりこのうたは、〈贈与の過剰〉のうたなんではないかとおもうんです。
結語は、「めでたしめでたしや」です。この「めでたしめでたしや」が結語に配備されたことによって読み手は、昔話の言説(ディスクール)を想起しつつ、このうたの語り手が、そうした昔話の説話論のなかでこのうたをうたっているのではないかとかんがえることもできるのではないかとおもうんですね。
昔話の言説とは、なんでしょう。それはさまざまな位相があるとおもうんですが、昔話の言説のひとつの側面に、〈過剰な贈与〉としてのハッピー・エンディングがあるように思います。桃太郎を想起しても、舌切り雀を想起しても、猿蟹合戦を想起してもいいんですが、いいこと・悪いことにかかわらずそこには〈過剰な贈与〉によって物語のカタルシスがつくられ終結にみちびかれるという構造があるようにおもいます。桃太郎のように大量の財産を鬼からなかば暴力的に収奪してのエンディングかもしれないし、舌切り雀のように大量の魑魅魍魎としての〈贈与〉かもしれない。ともかくそこには〈過剰な贈与〉としての〈贈与の過剰〉がこの二時間おきに届くあまがさのようにあるはずです。
ここでもういちど「めでたしめでたしや」に着目するならば、これはあまりに大幅な破調です。「めでたしや」の分だけ定型が決壊しているんですが、実はその決壊としての過剰こそがこのうたのポイントではないかとおもいます。
たしかこのうたは連のさいごに置かれていたとおもうんですが、そうした言語の過剰によって連がしめくくられることになります。昔話のディスクールに身をよせた語り手にとってはなによりも言語の過剰な贈与によってこのうたを、連を終わらせることが〈ハッピー・エンディング〉だったはずです。
そのような〈過剰の応酬〉を定型と関わらせること。それが「めでたしめでたしや」のディスクールを応用する語り手のもくろみだったようにさえ、おもうのです。
だれひとり殺さずだれにも殺されず生き抜くことができますように 吉岡太朗
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