【感想】あなたにはもう会わないとバスタブの栓抜きながらなぜか思った 鈴掛真
- 2015/07/10
- 01:19
あなたにはもう会わないとバスタブの栓抜きながらなぜか思った 鈴掛真
【おふろと、こころ】
浴室の話をしていたので、浴室の話をつづけましょう。
鈴掛真さんの一首です。
浴室はどうやらこわい空間だけでなく、短詩においては〈別れ〉や〈別離〉の空間としても機能しているのではないかというのがこんかいの話です。
たとえばですね、俳句からは猿丸さんのこんな句をあげてみたいとおもいます。
髪洗ふシャワーカーテン隔て尿る 榮猿丸
これはユニットバスをめぐる句だとおもうんですが、ここにも空間をめぐる〈別・離〉があります。ユニットバスという空間性から生起された別離ですが、ここにはシャワーから放出される温水と、そしておしっことして放出される放尿という水の循環もあります。
ここでまた鈴掛さんの歌にもどります。
猿丸さんの句でわかったことは、浴室とはどうも水がめぐりめぐる場所であるらしいということです。
でもこれはバスタブなんかにもいえることです。
水を出し、お湯をわかし、そのなかにはいり、栓を抜き、お湯をすてる。
バスタブとは、水の通過点であり、水がサイクルされているその循環点のなかの〈踊り場〉のようなものです。
「あなたにはもう会わない」と語り手はおもった。でもそれが「なぜか」はわからなかった。わからない、ということは、語り手は〈会おう〉とおもっていたかもしれないということでもあります。わかっていたら、「なぜか」とはいわないからです。でもバスタブの栓をぬいたしゅんかん、語り手には「なぜか」はわからないけれど「なにか」がわかった。
それは、語り手が、浴室という場所性をそのからだにうけとめたから、ともいえるのではないかとおもうのです。
バスタブの栓をぬいたしゅんかん、〈あなたとの出会い〉を相対化して、水の循環としての踊り場である浴室が、〈あなたとの出会い〉をもういちど無意識のうちに再考させた。
もしかしたら、あなたも、わたしも、この循環するバスタブの一時的なお湯のように、めぐりめぐるものかもしれないとおもった。
もちろん、語り手は「なぜか」といっているので、「なぜか」また会ってしまうかもしれない。でも「なぜか」そうおもったことは、じつは理由をもって思うことよりも、根強いような気がするんですね。それは「なぜか」おもってしまうことは、ことばで処理することができないからです。でもたとえば〈好き〉ってきもちもそうですよね。ことばで処理することができないからこそ、かえがたい価値観とされるし、じゃあ好きでいることをやめようとすることもできない。
浴室は、わたしが言語処理できない〈内面〉を場所性として表出する空間になっている。
だから、浴室で、泣いているひとがいるんじゃないかな、ってときどきおもうんですよ。
ときどき、《なぜか》、じぶんのきもちにきがついてしまって。おふろにはいったしゅんかんに。
儀式的風呂場で洗い流す今日 竹井紫乙
【おふろと、こころ】
浴室の話をしていたので、浴室の話をつづけましょう。
鈴掛真さんの一首です。
浴室はどうやらこわい空間だけでなく、短詩においては〈別れ〉や〈別離〉の空間としても機能しているのではないかというのがこんかいの話です。
たとえばですね、俳句からは猿丸さんのこんな句をあげてみたいとおもいます。
髪洗ふシャワーカーテン隔て尿る 榮猿丸
これはユニットバスをめぐる句だとおもうんですが、ここにも空間をめぐる〈別・離〉があります。ユニットバスという空間性から生起された別離ですが、ここにはシャワーから放出される温水と、そしておしっことして放出される放尿という水の循環もあります。
ここでまた鈴掛さんの歌にもどります。
猿丸さんの句でわかったことは、浴室とはどうも水がめぐりめぐる場所であるらしいということです。
でもこれはバスタブなんかにもいえることです。
水を出し、お湯をわかし、そのなかにはいり、栓を抜き、お湯をすてる。
バスタブとは、水の通過点であり、水がサイクルされているその循環点のなかの〈踊り場〉のようなものです。
「あなたにはもう会わない」と語り手はおもった。でもそれが「なぜか」はわからなかった。わからない、ということは、語り手は〈会おう〉とおもっていたかもしれないということでもあります。わかっていたら、「なぜか」とはいわないからです。でもバスタブの栓をぬいたしゅんかん、語り手には「なぜか」はわからないけれど「なにか」がわかった。
それは、語り手が、浴室という場所性をそのからだにうけとめたから、ともいえるのではないかとおもうのです。
バスタブの栓をぬいたしゅんかん、〈あなたとの出会い〉を相対化して、水の循環としての踊り場である浴室が、〈あなたとの出会い〉をもういちど無意識のうちに再考させた。
もしかしたら、あなたも、わたしも、この循環するバスタブの一時的なお湯のように、めぐりめぐるものかもしれないとおもった。
もちろん、語り手は「なぜか」といっているので、「なぜか」また会ってしまうかもしれない。でも「なぜか」そうおもったことは、じつは理由をもって思うことよりも、根強いような気がするんですね。それは「なぜか」おもってしまうことは、ことばで処理することができないからです。でもたとえば〈好き〉ってきもちもそうですよね。ことばで処理することができないからこそ、かえがたい価値観とされるし、じゃあ好きでいることをやめようとすることもできない。
浴室は、わたしが言語処理できない〈内面〉を場所性として表出する空間になっている。
だから、浴室で、泣いているひとがいるんじゃないかな、ってときどきおもうんですよ。
ときどき、《なぜか》、じぶんのきもちにきがついてしまって。おふろにはいったしゅんかんに。
儀式的風呂場で洗い流す今日 竹井紫乙
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