【こわい川柳 第六十三話】飛び跳ねて人を消す毬「ありがとう」 倉本朝世
- 2015/07/17
- 00:07
飛び跳ねて人を消す毬「ありがとう」 倉本朝世
【ありがとう2015夏】
『あざみ通信』4号・1996年7月の倉本さんの「わたしはだあれ」からの一句です。
ちょっとふと思ったんですが、「ありがとう」は「ありがとう」という5音だったからこそ、定型詩と宿命的関わりを結ばざるをえなくなったんじゃないかとおもったんですね。
定型詩は音数律なので、その音数と関わりぶかいことばを召喚する。召喚されたことばは、定型詩とのかかわりがふかくなっていく。
「こんにちは」「さようなら」という10文字の中から愛を探すしかない 工藤吉生
たとえば工藤さんにこんな挨拶をめぐる印象的な歌があるんですが、わたしはこれは、ある意味、定型詩の宿命観を歌ったうたなんじゃないかともおもうんです。
「こんにちは」という5音、「さようなら」という5音、そのなかから「愛を探すしかない」。
でも「愛」という2音は、そのなかにはみつからないかもしれない。「愛」は2音だから、足さなければ定型詩として語れないし、ことばにできない。
でも「こんにちは」「さようなら」はそれだけで5音で定型に沿うことができる。
だから、(歌の語り手にとっては)5音の挨拶のなかには、そこには、すべてがある。愛はないかもしれないけれど、愛に似たなにかはあるかもしれない。
で、倉本さんの「ありがとう」にかえってみます。
人が消えたいま、いったい《だれ》が「ありがとう」と発話できたのか、ふしぎですよね。人は毬がはねながら消してしまった。でも、「ありがとう」は、のこった。
これは、川柳じたいが発話しているんじゃないかとおもうんです。下五としてです。「ありがとう」と。
そして、川柳も、きえる。575で終わりなので。
工藤さんの歌とあえて倉本さんの句を共鳴させてみると、じつはわたしたちはふだんの挨拶のなかで定型詩になかば潜り込もうとしているといえるんじゃないかとおもうんです。
いつもあと一歩なわけです。5音を発したのですから。次に7音を発すれば定型詩にはいっていける。
ところがそのあと挨拶は挨拶としての形式が遵守され、定型詩にはおもむかないで、消える。おもむいたとしても、きづかれずにおわってしまう。
でも実は、「ありがとう」や「こんにちは」「さようなら」という5音の半熟化された定型詩としての5音は、ふだんの日常的なことばと定型詩のあわいをたゆたっている。それは意味だけじゃなく、形式として、音数としてただよっている。
だから、愛の消滅の現場に、人の明滅の現場に、挨拶は、5音として、あらわれる。
それは、短歌や川柳が、あるときはふっとあらわれ、あるときはすっと消える《現場》そのものだからじゃないかともおもうのです。
いつも短歌も川柳も、「わたしはだあれ」と問うている。愛も、ひとも、わたしも、ことばも、いなくなった場所で。
定型が明滅している現場そのもののなかで。
じゃあ、定型とは、《だれ》なのか。
首のない背中が人をかかえこむ 佐藤みさ子
【ありがとう2015夏】
『あざみ通信』4号・1996年7月の倉本さんの「わたしはだあれ」からの一句です。
ちょっとふと思ったんですが、「ありがとう」は「ありがとう」という5音だったからこそ、定型詩と宿命的関わりを結ばざるをえなくなったんじゃないかとおもったんですね。
定型詩は音数律なので、その音数と関わりぶかいことばを召喚する。召喚されたことばは、定型詩とのかかわりがふかくなっていく。
「こんにちは」「さようなら」という10文字の中から愛を探すしかない 工藤吉生
たとえば工藤さんにこんな挨拶をめぐる印象的な歌があるんですが、わたしはこれは、ある意味、定型詩の宿命観を歌ったうたなんじゃないかともおもうんです。
「こんにちは」という5音、「さようなら」という5音、そのなかから「愛を探すしかない」。
でも「愛」という2音は、そのなかにはみつからないかもしれない。「愛」は2音だから、足さなければ定型詩として語れないし、ことばにできない。
でも「こんにちは」「さようなら」はそれだけで5音で定型に沿うことができる。
だから、(歌の語り手にとっては)5音の挨拶のなかには、そこには、すべてがある。愛はないかもしれないけれど、愛に似たなにかはあるかもしれない。
で、倉本さんの「ありがとう」にかえってみます。
人が消えたいま、いったい《だれ》が「ありがとう」と発話できたのか、ふしぎですよね。人は毬がはねながら消してしまった。でも、「ありがとう」は、のこった。
これは、川柳じたいが発話しているんじゃないかとおもうんです。下五としてです。「ありがとう」と。
そして、川柳も、きえる。575で終わりなので。
工藤さんの歌とあえて倉本さんの句を共鳴させてみると、じつはわたしたちはふだんの挨拶のなかで定型詩になかば潜り込もうとしているといえるんじゃないかとおもうんです。
いつもあと一歩なわけです。5音を発したのですから。次に7音を発すれば定型詩にはいっていける。
ところがそのあと挨拶は挨拶としての形式が遵守され、定型詩にはおもむかないで、消える。おもむいたとしても、きづかれずにおわってしまう。
でも実は、「ありがとう」や「こんにちは」「さようなら」という5音の半熟化された定型詩としての5音は、ふだんの日常的なことばと定型詩のあわいをたゆたっている。それは意味だけじゃなく、形式として、音数としてただよっている。
だから、愛の消滅の現場に、人の明滅の現場に、挨拶は、5音として、あらわれる。
それは、短歌や川柳が、あるときはふっとあらわれ、あるときはすっと消える《現場》そのものだからじゃないかともおもうのです。
いつも短歌も川柳も、「わたしはだあれ」と問うている。愛も、ひとも、わたしも、ことばも、いなくなった場所で。
定型が明滅している現場そのもののなかで。
じゃあ、定型とは、《だれ》なのか。
首のない背中が人をかかえこむ 佐藤みさ子
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