【こわい短歌 番外篇】まただ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ 岡野大嗣
- 2015/07/18
- 01:12
まただ のり弁掻き込んでいるときに後頭部から撃たれる夢だ 岡野大嗣
【のり弁と死/詩】
こわい川柳・番外篇です。
一時期、短詩における〈のり弁〉についてずっとかんがえていたんです。のり弁、ってなんなんだろう、と。
で、岡野さんののり弁の歌をみたとき、またすこしのり弁についてわたしは教えてもらったような気がしたんです。
斉藤斎藤さんの有名なのり弁の歌が短歌の世界にはあります。
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 斉藤斎藤
で、わたし、こののり弁の歌をあえてあわせて岡野さんとのり弁の歌とかけあわせてダブルのミックスされた〈のり弁〉として読むならば、この〈のり弁の系譜〉で語られているのは、〈死〉と〈不可逆〉なんじゃないかとおもうんです。
斎藤さんの歌って、すごく、〈とりかえしのつかない〉感じが強いうただとおもうんですね。
のり弁という形式化・記号化された食材が「ぶちまけられて」形式や記号が破砕された状況もそうだとおもうんだけれど、なによりもここ県道ですよね。じぶんの家じゃないからどうにもならないんですよ。回収もできない。ぶちまけられていて、なおかつ、県道なんです。〈わたしの場所〉じゃない。
しかも、雨が降っているんです。ということは、もう食材が品質変化さえしていて、どんなに形式だててのり弁を直したとしても、それは〈とりかえしがつかないもの〉になっている。
これってひとつの〈死〉のかたちだとおもうんです。ひとは死んだしゅんかん、私有化できない、記号化しえない、形式化しえないモノになっていく。いろんな状況に、時間に、おかされていく。
そしてこの短歌が《こう》歌ったように、ことばにさえ侵食されてしまう。
それが、〈死〉なんじゃないかとおもうんです。
で、岡野さんののり弁も〈死〉の表情が強いとおもうんですね。
だけど、たとえば、これは夢ですよね。だから、不可逆なんじゃなくて、可逆じゃないか、とりかえしがきくじゃないかっておもわれるかもしれないですよね。
でも、そうじゃないとおもうんですよ。
「まただ」に注意してみたいとおもうんです。語り手はちゃんとカウントできるほどに、記憶してるんです。みずからの死の光景を。
ということは、〈また〉みる死の光景は、〈ちがう〉光景なんです。それは「また」という同じ光景かもしれないけれども、語り手がきちんと記憶している限り、二度目にやってきたみずからの死は意味がちがうとおもうんです。
つまり、たとえそれが夢であろうと、いちどみた光景を語り手がわすれないかぎり、それもまた不可逆なんです。加算されていく死なんです。
だから、もっといえばこうなんです。この歌が描いているこわい部分は、《ひとは夢でほんとうに死ぬんだ》ってことじゃないかと。
ひとは夢では死なない、んではなくて、死ぬんです。夢のなかでも。
夢から起きて、いっさいを忘れればべつです。でも、夢のなかでぶちまけられたじぶんをみて、それをわすれなということは、ある意味、死を経験し、記憶したということになるとおもうんです。
そして語り手は、それを、短歌にもした。またここにもひとつの言語化=記憶化としての死があります。
歌にしてしまった以上、それは不可逆です。だからじつは短歌という形式も、非言語の死がある。短歌とは、ことばにならないものを(殺して)、言葉にして記憶することだから。
だからことばにすること、思い出すということは、ある意味においては、ことばにならなかったもの、思い出さないで取っておいたものに〈死=詩〉をあたえることでもあるとおもうのです。
なぜなら、それは、もう不可逆のことばの装置に、短歌に、とってかわられてしまったのだから。
もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね 岡野大嗣
【のり弁と死/詩】
こわい川柳・番外篇です。
一時期、短詩における〈のり弁〉についてずっとかんがえていたんです。のり弁、ってなんなんだろう、と。
で、岡野さんののり弁の歌をみたとき、またすこしのり弁についてわたしは教えてもらったような気がしたんです。
斉藤斎藤さんの有名なのり弁の歌が短歌の世界にはあります。
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 斉藤斎藤
で、わたし、こののり弁の歌をあえてあわせて岡野さんとのり弁の歌とかけあわせてダブルのミックスされた〈のり弁〉として読むならば、この〈のり弁の系譜〉で語られているのは、〈死〉と〈不可逆〉なんじゃないかとおもうんです。
斎藤さんの歌って、すごく、〈とりかえしのつかない〉感じが強いうただとおもうんですね。
のり弁という形式化・記号化された食材が「ぶちまけられて」形式や記号が破砕された状況もそうだとおもうんだけれど、なによりもここ県道ですよね。じぶんの家じゃないからどうにもならないんですよ。回収もできない。ぶちまけられていて、なおかつ、県道なんです。〈わたしの場所〉じゃない。
しかも、雨が降っているんです。ということは、もう食材が品質変化さえしていて、どんなに形式だててのり弁を直したとしても、それは〈とりかえしがつかないもの〉になっている。
これってひとつの〈死〉のかたちだとおもうんです。ひとは死んだしゅんかん、私有化できない、記号化しえない、形式化しえないモノになっていく。いろんな状況に、時間に、おかされていく。
そしてこの短歌が《こう》歌ったように、ことばにさえ侵食されてしまう。
それが、〈死〉なんじゃないかとおもうんです。
で、岡野さんののり弁も〈死〉の表情が強いとおもうんですね。
だけど、たとえば、これは夢ですよね。だから、不可逆なんじゃなくて、可逆じゃないか、とりかえしがきくじゃないかっておもわれるかもしれないですよね。
でも、そうじゃないとおもうんですよ。
「まただ」に注意してみたいとおもうんです。語り手はちゃんとカウントできるほどに、記憶してるんです。みずからの死の光景を。
ということは、〈また〉みる死の光景は、〈ちがう〉光景なんです。それは「また」という同じ光景かもしれないけれども、語り手がきちんと記憶している限り、二度目にやってきたみずからの死は意味がちがうとおもうんです。
つまり、たとえそれが夢であろうと、いちどみた光景を語り手がわすれないかぎり、それもまた不可逆なんです。加算されていく死なんです。
だから、もっといえばこうなんです。この歌が描いているこわい部分は、《ひとは夢でほんとうに死ぬんだ》ってことじゃないかと。
ひとは夢では死なない、んではなくて、死ぬんです。夢のなかでも。
夢から起きて、いっさいを忘れればべつです。でも、夢のなかでぶちまけられたじぶんをみて、それをわすれなということは、ある意味、死を経験し、記憶したということになるとおもうんです。
そして語り手は、それを、短歌にもした。またここにもひとつの言語化=記憶化としての死があります。
歌にしてしまった以上、それは不可逆です。だからじつは短歌という形式も、非言語の死がある。短歌とは、ことばにならないものを(殺して)、言葉にして記憶することだから。
だからことばにすること、思い出すということは、ある意味においては、ことばにならなかったもの、思い出さないで取っておいたものに〈死=詩〉をあたえることでもあるとおもうのです。
なぜなら、それは、もう不可逆のことばの装置に、短歌に、とってかわられてしまったのだから。
もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね 岡野大嗣
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