【感想】渋滞のニュース聞きつつその距離に連なりを成す命を思う 岡野大嗣=安福望
- 2015/07/18
- 20:39
渋滞のニュース聞きつつその距離に連なりを成す命を思う 岡野大嗣=安福望
【渋滞と鎮魂】
以前も少し言及したことがあるし、昨日とりあげたのり弁の歌もそうだとおもうんですが、岡野さんの歌集『サイレンと犀』を読んでいて気がつくことのひとつに、〈死〉のモチーフがあるんじゃないかとおもうんです。
〈死〉のモチーフとは、裏をかえしていえば、〈生〉=〈生きる〉っていうことはどういうことかをかんがえるってことだともおもうんですね。
その〈死〉と〈生〉のモチーフをひとつにまとめていえば、〈命〉のモチーフということになるんじゃないかとおもうんです。
で、ですね。ここでまた岡野さんのこの歌のそばにある安福さんの絵に言及しながら岡野さんの歌をかんがえてみたいんですが、岡野さんのうえの歌では、「渋滞」のランプ=灯りが「灯籠流し」のような「命」の「連なり」につながっていきます。
この〈灯りの連なり〉と〈命〉のモチーフは、安福さんの〈ろうそくの連なり〉として絵と共鳴していきます。まるでひとびとの寿命のろうそくが灯る現場に死神に連れて行かれた落語「死神」のラストシーンのような風景ですが、それと同時に連なるろうそくの灯は〈鎮魂〉としての静粛な風景もあらわしています。
この絵のろうそくはわたしたち生きるものがいつかは死なねばならないという〈生者への視線〉があると同時に、死せるものたちの魂をしずめるための鎮魂としての〈死者への視線〉が同時に存在しているとおもうのです。
それは岡野さんの歌が、「渋滞のニュース」という〈生者へのニュース〉を「連なりを成す命」として〈生者からのニュース〉として受け取ったような〈生の同時性〉です。渋滞は生者だけのものだけれど、命という語感には、〈生/死〉のダブルミーニングがある。
で、ですね。さきほどの安福さんの絵ですが、この絵で大事なのは、木が倒壊=半壊していて、そのなかから男の子と犬がこちらを見ている、そうした〈崩壊の風景〉がひとつ描かれているということなんじゃないかとおもうんですね。安福さんの絵をみていて思うんですが、どれだけやさしいタッチでも、実はそこに厳しいテーマが描かれていることもある。そうした相反したものが葛藤しあう現場が絵でもあるとおもうんです。
この絵は、じつは岡野さんの歌集のなかである〈連なり〉をもっていたんじゃないかとおもうんです。すこしこの歌集のまえに戻って木の絵をみてみます。
この絵では木が繁っている。倒壊も半壊もしていない。孤立や孤独のテーマを予期させつつも、きちんと共同体ができている。
そこから進んだところにはこんな木の絵があります。
クリスマスツリーのようなものが中央にそびえていましたが、それ以外の木は伐採され、天使がうなだれて座っています。あえてこの絵をわたしが解釈すれば、伐採という人工の力に、天使という超越性が負けてしまったことの無力じゃないかとおもうんです。どんなに超越的な力をもっていても、ある破壊力に負けてしまうことがある。あまり簡単に結びつけてもいけないのだけれど、これは2011年を経験している〈わたしたち〉には切実なテーマとして響いてくる風景だともおもうんです。
そしてこの歌集の最後に、最初に紹介した絵があるんです。倒壊のなかそれでも鎮魂をしようとする絵が。男の子と犬は、半壊した木から、《それでも》こちらをみています。
岡野さんの渋滞の歌は、結語が「思う」で終わっていました。語り手は「思う」ことで、〈命〉のテーマを浮上し、想起させている。「思わなければ」それはただの「渋滞のニュース」なんです。
安福さんの絵においても、少年と犬がこちらを見つめることによって〈どう思うのか〉を問いかけているようにおもうんです。この風景のまえで、あなたは〈どう思う〉のかを。この歌集を一冊読み終えたいま、あなたは〈なにを思う〉のかを。
「思う」というのは、じつは、〈選択〉なのであって、いま、あなたがなにを想起し、なにを忘却しようとしているのかを。
この絵は問いかけているんじゃないかなって、そう、おもうんです。
線香を這う火のようにモノレールが終着駅へ向かうのを見る 岡野大嗣
【渋滞と鎮魂】
以前も少し言及したことがあるし、昨日とりあげたのり弁の歌もそうだとおもうんですが、岡野さんの歌集『サイレンと犀』を読んでいて気がつくことのひとつに、〈死〉のモチーフがあるんじゃないかとおもうんです。
〈死〉のモチーフとは、裏をかえしていえば、〈生〉=〈生きる〉っていうことはどういうことかをかんがえるってことだともおもうんですね。
その〈死〉と〈生〉のモチーフをひとつにまとめていえば、〈命〉のモチーフということになるんじゃないかとおもうんです。
で、ですね。ここでまた岡野さんのこの歌のそばにある安福さんの絵に言及しながら岡野さんの歌をかんがえてみたいんですが、岡野さんのうえの歌では、「渋滞」のランプ=灯りが「灯籠流し」のような「命」の「連なり」につながっていきます。
この〈灯りの連なり〉と〈命〉のモチーフは、安福さんの〈ろうそくの連なり〉として絵と共鳴していきます。まるでひとびとの寿命のろうそくが灯る現場に死神に連れて行かれた落語「死神」のラストシーンのような風景ですが、それと同時に連なるろうそくの灯は〈鎮魂〉としての静粛な風景もあらわしています。
この絵のろうそくはわたしたち生きるものがいつかは死なねばならないという〈生者への視線〉があると同時に、死せるものたちの魂をしずめるための鎮魂としての〈死者への視線〉が同時に存在しているとおもうのです。
それは岡野さんの歌が、「渋滞のニュース」という〈生者へのニュース〉を「連なりを成す命」として〈生者からのニュース〉として受け取ったような〈生の同時性〉です。渋滞は生者だけのものだけれど、命という語感には、〈生/死〉のダブルミーニングがある。
で、ですね。さきほどの安福さんの絵ですが、この絵で大事なのは、木が倒壊=半壊していて、そのなかから男の子と犬がこちらを見ている、そうした〈崩壊の風景〉がひとつ描かれているということなんじゃないかとおもうんですね。安福さんの絵をみていて思うんですが、どれだけやさしいタッチでも、実はそこに厳しいテーマが描かれていることもある。そうした相反したものが葛藤しあう現場が絵でもあるとおもうんです。
この絵は、じつは岡野さんの歌集のなかである〈連なり〉をもっていたんじゃないかとおもうんです。すこしこの歌集のまえに戻って木の絵をみてみます。
この絵では木が繁っている。倒壊も半壊もしていない。孤立や孤独のテーマを予期させつつも、きちんと共同体ができている。
そこから進んだところにはこんな木の絵があります。
クリスマスツリーのようなものが中央にそびえていましたが、それ以外の木は伐採され、天使がうなだれて座っています。あえてこの絵をわたしが解釈すれば、伐採という人工の力に、天使という超越性が負けてしまったことの無力じゃないかとおもうんです。どんなに超越的な力をもっていても、ある破壊力に負けてしまうことがある。あまり簡単に結びつけてもいけないのだけれど、これは2011年を経験している〈わたしたち〉には切実なテーマとして響いてくる風景だともおもうんです。
そしてこの歌集の最後に、最初に紹介した絵があるんです。倒壊のなかそれでも鎮魂をしようとする絵が。男の子と犬は、半壊した木から、《それでも》こちらをみています。
岡野さんの渋滞の歌は、結語が「思う」で終わっていました。語り手は「思う」ことで、〈命〉のテーマを浮上し、想起させている。「思わなければ」それはただの「渋滞のニュース」なんです。
安福さんの絵においても、少年と犬がこちらを見つめることによって〈どう思うのか〉を問いかけているようにおもうんです。この風景のまえで、あなたは〈どう思う〉のかを。この歌集を一冊読み終えたいま、あなたは〈なにを思う〉のかを。
「思う」というのは、じつは、〈選択〉なのであって、いま、あなたがなにを想起し、なにを忘却しようとしているのかを。
この絵は問いかけているんじゃないかなって、そう、おもうんです。
線香を這う火のようにモノレールが終着駅へ向かうのを見る 岡野大嗣
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