【感想】不気味からいい人までの創世記 月波与生
- 2014/06/12
- 00:51
不気味からいい人までの創世記
訓練にしては鋭い矢印だ
月波与生
【おや、この句には、弾力がある!?】
月波与生さんのこのふたつの句は、ある意味どちらも同じ構造をもっているといえるとおもうんです。
上の句は、(不気味からいい人までの)創世記
下の句は、(訓練にしては鋭い)矢印だ
と、下五の名詞に上五中七が一気に修飾していき、結語で体言止めもしくは断定で終わるかたちになっています。
でもこれら二句のおもしろさは、修飾に対する下五の名詞の反動としての弾力にあるんじゃないかとおもうんです。
たとえば上の句の(不気味からいい人までの)という修飾語は、この短い12音のなかに一気に圧縮するかたちで「創世記」をパッケージングするような修飾になっています。わたしたちはこのような短いことばで効果的に紹介することばを知っています。それは、広告コピーです。わたしはこの「不気味からいい人までの」というのは、広告コピー的な修飾語としてのおもしろさがあるんじゃないかとおもっています(「秋の紅葉狩りから蟹食べ放題まで」といったような旅行代理店のコピーをおもいだしてみてもいいかもしれません)。ただポイントは、そうした広告コピー的な修飾を「創世記」という歴史の厚みのあることばが受け止めつつも、はねかえすことです。そこに、この句のベクトルとしての弾力があるようにおもいます。聖書というのは宗教学の地点からアカデミックなかたちでも言及されるし、『シンプソンズ』のアニメにみられるようにギャグとしてつかわれるのもまた聖書です。とくに名前が長大にシュールなまでにずらずらと並ぶ創世記はギャグにうってつけです。そうした歴史・文化的厚みがある記号の弾力をもつ「創世記」が広告コピー的修飾と葛藤しあう、そこにわたしはこの句のひとつのおもしろさがあるとおもっています。
矢印の句もまさにそうした修飾するものと修飾されるものの葛藤としての弾力がおもしろさとなっているようにおもうんです。
わたしにとってこんなふうに、ときに、川柳は、むちむちしています。そのようなむちむち感も川柳のひとつの魅力のような気もします。川柳は、ひとのように、弾力があるのです。
人になる呪文が裏に書いてある 月波与生
訓練にしては鋭い矢印だ
月波与生
【おや、この句には、弾力がある!?】
月波与生さんのこのふたつの句は、ある意味どちらも同じ構造をもっているといえるとおもうんです。
上の句は、(不気味からいい人までの)創世記
下の句は、(訓練にしては鋭い)矢印だ
と、下五の名詞に上五中七が一気に修飾していき、結語で体言止めもしくは断定で終わるかたちになっています。
でもこれら二句のおもしろさは、修飾に対する下五の名詞の反動としての弾力にあるんじゃないかとおもうんです。
たとえば上の句の(不気味からいい人までの)という修飾語は、この短い12音のなかに一気に圧縮するかたちで「創世記」をパッケージングするような修飾になっています。わたしたちはこのような短いことばで効果的に紹介することばを知っています。それは、広告コピーです。わたしはこの「不気味からいい人までの」というのは、広告コピー的な修飾語としてのおもしろさがあるんじゃないかとおもっています(「秋の紅葉狩りから蟹食べ放題まで」といったような旅行代理店のコピーをおもいだしてみてもいいかもしれません)。ただポイントは、そうした広告コピー的な修飾を「創世記」という歴史の厚みのあることばが受け止めつつも、はねかえすことです。そこに、この句のベクトルとしての弾力があるようにおもいます。聖書というのは宗教学の地点からアカデミックなかたちでも言及されるし、『シンプソンズ』のアニメにみられるようにギャグとしてつかわれるのもまた聖書です。とくに名前が長大にシュールなまでにずらずらと並ぶ創世記はギャグにうってつけです。そうした歴史・文化的厚みがある記号の弾力をもつ「創世記」が広告コピー的修飾と葛藤しあう、そこにわたしはこの句のひとつのおもしろさがあるとおもっています。
矢印の句もまさにそうした修飾するものと修飾されるものの葛藤としての弾力がおもしろさとなっているようにおもうんです。
わたしにとってこんなふうに、ときに、川柳は、むちむちしています。そのようなむちむち感も川柳のひとつの魅力のような気もします。川柳は、ひとのように、弾力があるのです。
人になる呪文が裏に書いてある 月波与生
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