【感想】地下街は地下道になるいつしかにBGMが消えたあたりで 岡野大嗣
- 2015/07/21
- 07:05
地下街は地下道になるいつしかにBGMが消えたあたりで 岡野大嗣
【サイレン+と=サイレント】
岡野さんのこの歌集は『サイレンと犀』っていうタイトルなんですが、このタイトルはある意味で、〈音〉の両極端を暗示しているとおもうんですね。
サイレンっていうのは喧噪、すさまじい音が氾濫する世界、そして sigh =ため息としての〈沈黙〉〈静寂(しじま)〉のようなサイレントの世界です。
そもそもこの歌集は、サイレン/サイレントという〈と〉の付加によって〈音〉の多寡がまったく反転してしまう世界なんです。
で、岡野さんの掲歌です。
この歌でよくわかるのが、語り手は世界の分節、切れ目を〈音〉でとらえているんだってことです。
意味でもない、視野でもない、感覚でもない、気分でもない。
音、なんですよ。
音が語り手をマッピングしている。
音から世界をとらえている。
で、ですね。わたしのもうひとつ好きな歌でこういう歌があるんです。わたし、いつもフードコートいくたびに思い出したりしているんですが、
地獄ではフードコートの呼び出しのブザーがずっと鳴ってるらしい 岡野大嗣
わたしこの歌みたとき、あ、そうか、地獄を〈音〉からとらえる視点があるのか、っておもったんですね。
ふつうは地獄って視覚あるいは痛覚だとおもうんですよ。なぜなら、音って地獄を装置としてとらえるにはあまり意味がないんですね。地獄は生者に善や徳を積ませるためにあるわけですから、効果的じゃなければならない。だから、聴覚でそもそも地獄を表現するのは効果的じゃない。針の山や血の池地獄をみせればいいんです。
ところが岡野さんのこの短歌では、ある意味、フードコートのあの耳をつんざくようなとうとつの呼び出し音の〈痛み〉を介して、聴覚=音から〈地獄〉をとらえているんですね。
さっきの歌では「地」下街・「地」下道を「音」からとらえていましたが、今回の歌では「地」獄を「音」ととらえています。
ここには、ふたつのおおきな意味があるとおもいます。
ひとつにはさきほどいったように、世界のとらえかた、世界の区分の仕方、世界の分節のしかたが、〈音〉によって構成されていくということ。
もうひとつは、「地獄」にみられるように、〈生・死〉という現実の世界をこえたハイパーリアルな世界さえも、〈音〉からとらえていくという死生観の音からの分節です。
だからこそ、語り手にとっては音楽を聴くことは、みずからの生きていくことの/生き延びていくことの/みずから死んでしまったひと《と共に》なおそれでも生をえらびとり生きていくことの死生観を問いただされることでもあるのではないかとおもうのです。すなわち、
生き延びるために聴いてる音楽が自分で死んだひとのばかりだ 岡野大嗣
【サイレン+と=サイレント】
岡野さんのこの歌集は『サイレンと犀』っていうタイトルなんですが、このタイトルはある意味で、〈音〉の両極端を暗示しているとおもうんですね。
サイレンっていうのは喧噪、すさまじい音が氾濫する世界、そして sigh =ため息としての〈沈黙〉〈静寂(しじま)〉のようなサイレントの世界です。
そもそもこの歌集は、サイレン/サイレントという〈と〉の付加によって〈音〉の多寡がまったく反転してしまう世界なんです。
で、岡野さんの掲歌です。
この歌でよくわかるのが、語り手は世界の分節、切れ目を〈音〉でとらえているんだってことです。
意味でもない、視野でもない、感覚でもない、気分でもない。
音、なんですよ。
音が語り手をマッピングしている。
音から世界をとらえている。
で、ですね。わたしのもうひとつ好きな歌でこういう歌があるんです。わたし、いつもフードコートいくたびに思い出したりしているんですが、
地獄ではフードコートの呼び出しのブザーがずっと鳴ってるらしい 岡野大嗣
わたしこの歌みたとき、あ、そうか、地獄を〈音〉からとらえる視点があるのか、っておもったんですね。
ふつうは地獄って視覚あるいは痛覚だとおもうんですよ。なぜなら、音って地獄を装置としてとらえるにはあまり意味がないんですね。地獄は生者に善や徳を積ませるためにあるわけですから、効果的じゃなければならない。だから、聴覚でそもそも地獄を表現するのは効果的じゃない。針の山や血の池地獄をみせればいいんです。
ところが岡野さんのこの短歌では、ある意味、フードコートのあの耳をつんざくようなとうとつの呼び出し音の〈痛み〉を介して、聴覚=音から〈地獄〉をとらえているんですね。
さっきの歌では「地」下街・「地」下道を「音」からとらえていましたが、今回の歌では「地」獄を「音」ととらえています。
ここには、ふたつのおおきな意味があるとおもいます。
ひとつにはさきほどいったように、世界のとらえかた、世界の区分の仕方、世界の分節のしかたが、〈音〉によって構成されていくということ。
もうひとつは、「地獄」にみられるように、〈生・死〉という現実の世界をこえたハイパーリアルな世界さえも、〈音〉からとらえていくという死生観の音からの分節です。
だからこそ、語り手にとっては音楽を聴くことは、みずからの生きていくことの/生き延びていくことの/みずから死んでしまったひと《と共に》なおそれでも生をえらびとり生きていくことの死生観を問いただされることでもあるのではないかとおもうのです。すなわち、
生き延びるために聴いてる音楽が自分で死んだひとのばかりだ 岡野大嗣
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