【感想】会えない人はみんなきらいだ眠ったらぜんぶ忘れる話はすきだ 嶋田さくらこ
- 2015/07/22
- 12:00
会えない人はみんなきらいだ眠ったらぜんぶ忘れる話はすきだ 嶋田さくらこ
【短歌における「きらいだ」という発話はほんとうに「きらいだ」なのか】
以前から自分にとってとても気になる歌だなと思っていたのですが、今回安福望さんの『食器と食パンとペン』で引用されているのをみて、またあらためてかんがえてみました。
この歌のかたちに注目してみます。
意味のうえからもわけてみると、
(あえないひとは/みんなきらいだ)(ねむったら/ぜんぶわすれる/はなしはすきだ)
という、
77 577
というかたちになっているとおもいます。
さいしょの「会えない人はみんなきらいだ」に唐突さと力強さとぶっきらぼうなかんじを受けるなら、この頭の77と、さいごの5音が下の句に移行しているてんにあるんじゃないかとおもいます。
つまり、語り手は定型をこえて感情的になっているようすが〈かたち〉であらわされています。
語り手が定型をこえて感情的になっている。
これはどういうことかというと、もちろん「きらいだ」なので感情的であるんですが、大事なことは定型をこえて感情的になることで、短歌の意味性としては裏の側面がでてくることです。
「眠ったらぜんぶ忘れる話はすきだ」は577と定型をまもっているので、たぶん語り手は〈ほんとう〉にそうおもっているんじゃないかなとおもいます。短歌としてはナチュラルなわけです。
でも「会えない人はみんあきらいだ」は定型としてはインパクトあるぶっきらぼうなとうとつさがあるので、もしかするとこれは「きらいだ」と思いこもうとしているのではないかとおもうわけです。
ほんとうは「会いたいけれど会えない人」を「きらい」にはなれないけれど、「きらいだ」とあえて発話しようとしてとき、それを短歌をとおしてうたおうとしてたときに、みずからの感情をナチュラルに定型に重ねずにあえて定型をはみだしてみる。そのことによって「きらいだ」という発話自体さえも、ひっくりかえってしまうような事態がおきる。
それが短歌=定型をとおした〈感情〉のうたいかたなのではないかとおもうんです。
だからほんとうは「きらい」ではなく、「すき」なのではないかともおもうのです。ただそれでも無理に「きらい」と発話しようとするときに、定型からはぶれてしまう。そしてそのことによってまったく逆のきもちも同時にあらわすことができる。
それが短歌=定型なのではないかともおもいます。
だから、語り手は、いや読み手も、「忘れない」はずです。
定型にナチュラルにそってうたわれた歌はあるいは「忘れる」かもしれないけれど、定型にそおうとして定型からはずれてしまったその〈逸脱〉が語り手の、読み手の痕跡としてのこっていくはずです。
〈逸脱〉することはある意味で、〈出来事〉を記憶して残しておくための〈痕跡〉なのです。
枯れたからもう捨てたけど魔王つて名前をつけてゐた花だつた 藪内亮輔
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