【感想】たくさんのたくさんの人がいる中でただ手を繋げる人を探した 後藤葉菜
- 2015/07/23
- 12:00
たくさんのたくさんの人がいる中でただ手を繋げる人を探した 後藤葉菜
【ことばをさがす、ことばをいどうする】
安福望さんの『食器と食パンとペン』にも引用されている後藤葉菜さんの歌です。
この歌の「ただ手を繋げる人」という「人」になっているところがこの歌のひとつの大事な点なんじゃないかとおもうんです。
それは「親」や「友」や「父」や「母」や「彼」や「姉」や「彼女」や「恋人」や「夫」や「妻」ではなく、「人」だった。「ただ手を繋げる人」です。
で、上の句にも「人」は出てきています。
「たくさんのたくさんの人」が上の句にでてきていて、そのなかの「ただ手を繋げる人」です。
この歌では、ひとつめの「人」からふたつめの「人」に、「人」は変化しています。
ひとつめの「人」は、「たくさんのたくさんの人」なので、〈数〉としての「人」です。これは、「n人」という数詞としての「人」です。
でもふたつめは「n人」ではありません。「ただ手を繋げる人」と、〈わたし〉と〈あなた〉のあいだで共有できる行為に限定修飾された「人」です。〈数〉が問題なのではなく、属性としての「人」です。そのひとひとりかもしれないけれども、語り手にとってはそのひとが〈人・間〉として感じられるような「人」です。
手をつなぐということについてときどき考えるんですが、手をつなぐ行為っていうのは基本的にふたつの大きなポイントがあるとおもうんですね。
まずひとつは、〈選択〉です。「たくさんのたくさんの人」とは同時に手を繋ぐことはできないし、また手を繋いだら、それは「手を繋いでいない人」も同時に生み出すことでもあるので、〈選択〉ということになります。
ふたつめは、〈諦念〉です。じつは手をつなぐということは、その手でできたはずのことを相手とつなぐことによってみずからの可能性をせばめることです。できたはずのことを、できなくする世界にすることが手をつなぐことです。「たくさんのたくさんの」可能性があった世界をひとつの手に集約させること。それが手をつなぐことです。
だからいまそれを「探し」ている語り手はこれから〈選択〉をして〈諦め〉て、「ただ」手をつなぐことになる。
それでも「探した」と語り手が「た」という過去時制をあらわす助詞で終わらせていることがとても大事のことのように思います。
この「た」という語り手が立っている場所だけは不動のポイントです。「走った」といえば「走ったポイント」が過去の時間として提示されるように、「探した」といえばそれが過去の時間としてポイントとして提示される。現在形のようにそれは幅をもつ時間ではない。ドットとして時間が刻印されるのです。そのとき・その場所でわたしは探し「た」んだと。
だからじつはこの歌にはもうひとつの〈移行〉があったというべきなのです。
ひとつめは先に述べた数の「人」から属性の「人」への移行です。
もうひとつ。それは「た」の移行です。この歌には「た」がよっつある。「たくさん」の「た」から「ただ」の「た」へ、そしてさらに「探した」の「た」へと語り手は渡っていくのです。「たくさん」という数の「た」から、「ただ」という限定の「た」へ、そしてさいごに「探した」の「た」という時間を引き受けて語り手はこの歌を終わらせる。
短歌のなかで「探す」ということは実はそういったことばを移行していくことなのではないかともおもうのです。
語法を移行する。語法のなかをさがす。たくさんのたくさんのことばや語法のなかから、ただひとつの〈わたしだけの語法〉を選び、あきらめ、つなぐこと。
しあわせにしてますように でも少しわたしが足りていませんように 月夜野みかん
【ことばをさがす、ことばをいどうする】
安福望さんの『食器と食パンとペン』にも引用されている後藤葉菜さんの歌です。
この歌の「ただ手を繋げる人」という「人」になっているところがこの歌のひとつの大事な点なんじゃないかとおもうんです。
それは「親」や「友」や「父」や「母」や「彼」や「姉」や「彼女」や「恋人」や「夫」や「妻」ではなく、「人」だった。「ただ手を繋げる人」です。
で、上の句にも「人」は出てきています。
「たくさんのたくさんの人」が上の句にでてきていて、そのなかの「ただ手を繋げる人」です。
この歌では、ひとつめの「人」からふたつめの「人」に、「人」は変化しています。
ひとつめの「人」は、「たくさんのたくさんの人」なので、〈数〉としての「人」です。これは、「n人」という数詞としての「人」です。
でもふたつめは「n人」ではありません。「ただ手を繋げる人」と、〈わたし〉と〈あなた〉のあいだで共有できる行為に限定修飾された「人」です。〈数〉が問題なのではなく、属性としての「人」です。そのひとひとりかもしれないけれども、語り手にとってはそのひとが〈人・間〉として感じられるような「人」です。
手をつなぐということについてときどき考えるんですが、手をつなぐ行為っていうのは基本的にふたつの大きなポイントがあるとおもうんですね。
まずひとつは、〈選択〉です。「たくさんのたくさんの人」とは同時に手を繋ぐことはできないし、また手を繋いだら、それは「手を繋いでいない人」も同時に生み出すことでもあるので、〈選択〉ということになります。
ふたつめは、〈諦念〉です。じつは手をつなぐということは、その手でできたはずのことを相手とつなぐことによってみずからの可能性をせばめることです。できたはずのことを、できなくする世界にすることが手をつなぐことです。「たくさんのたくさんの」可能性があった世界をひとつの手に集約させること。それが手をつなぐことです。
だからいまそれを「探し」ている語り手はこれから〈選択〉をして〈諦め〉て、「ただ」手をつなぐことになる。
それでも「探した」と語り手が「た」という過去時制をあらわす助詞で終わらせていることがとても大事のことのように思います。
この「た」という語り手が立っている場所だけは不動のポイントです。「走った」といえば「走ったポイント」が過去の時間として提示されるように、「探した」といえばそれが過去の時間としてポイントとして提示される。現在形のようにそれは幅をもつ時間ではない。ドットとして時間が刻印されるのです。そのとき・その場所でわたしは探し「た」んだと。
だからじつはこの歌にはもうひとつの〈移行〉があったというべきなのです。
ひとつめは先に述べた数の「人」から属性の「人」への移行です。
もうひとつ。それは「た」の移行です。この歌には「た」がよっつある。「たくさん」の「た」から「ただ」の「た」へ、そしてさらに「探した」の「た」へと語り手は渡っていくのです。「たくさん」という数の「た」から、「ただ」という限定の「た」へ、そしてさいごに「探した」の「た」という時間を引き受けて語り手はこの歌を終わらせる。
短歌のなかで「探す」ということは実はそういったことばを移行していくことなのではないかともおもうのです。
語法を移行する。語法のなかをさがす。たくさんのたくさんのことばや語法のなかから、ただひとつの〈わたしだけの語法〉を選び、あきらめ、つなぐこと。
しあわせにしてますように でも少しわたしが足りていませんように 月夜野みかん
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