【感想】かなしくてベルリンと言う強く言う 倉本朝世
- 2014/06/13
- 18:20
しんりん、とくちびるがいう性的に 柳本々々
【くちびるの森でとなえたなつかしい呪文】
なかはられいこさんが私の「しんりん、とくちびるがいう性的に」の句の評を書いてくださった(参照:「 おかじょうきとか、サムライジャパンとか 」『そらとぶうさぎ』)。
なかはらさんのことばを引用させていただくと、
この「しんりん」は「森林」なのですが、ひらがな表記によって、意味としての森林は初期化されています。はじめて出会うことばのように。そのうえ、ここではただの器官である「くちびる」に焦点が絞られています。そこに顔は無い。
だれかの口が発したであろう、ちょっと湿り気を帯びた「しんりん」という音の、セクシャルな語感を前面に、一度は初期化されながらもなお、読み手のあたまに残る森の持つ「性的」なイメージ(さまざまな生命体の存在する場)を背景に描かれた、奥行きの深い句ではないかと思うのです。
と、とてもていねいに書いていただいた(ありがとうございました!)。
① ひらがな表記に対する視点、② セクシャル・イメージの場としての森とくちびるの関わりの視点について、とても納得し、勉強させてもらいながら読んだ。
なかはらさんの、ひらがな表記とは意味の初期化なのではないか、という見解に、最近、川柳におけるひらがな表記のことについてずっと考えていたので、じぶんなりにいろいろ考えてみたりしてみた。
なかはらさんの視点を援用してすこし次の句についてかんがえてみたい。
倉本朝世さんの有名な句だ。
かなしくてベルリンと言う強く言う
この「ベルリン」はもちろん「ベルリン」のもつ記号的背景もあるかもしれない。
しかし、大事なことは二度繰り返される「言う」、とくに下五の「強く言う」である。
ここでは、「ベルリン」が想起されるよりも、「言う」という「ベルリン」の〈発話〉そのものに重心が置かれている。
つまり、表記としてはカタカナ表記であるものの、この「ベルリン」は語り手にとっては音節によってとなえると同時に耳に聴こえる「べるりん」でもあるのである。
しかし、「かなしくて」と上五にあるように、かなしみに起因する「ベルリン」をひらがな表記として語り手が「べるりん」と〈翻訳〉してしまうことを語り手は許していない。それは安易に解体され「初期化」されてはならないものなのだ。「かなしみ」は、容易に初期化することはできない。
だから、「ベルリン」はあくまで表記の翻訳ができない「ベルリン」として他者化されたままでなければならない。それは、くちびるに宿る他者として、初期化も、翻訳も容易にされてはならない「かなしみ」である。
でも、発話のちからもそこにある。わたしたちは、他者性をたたえたままに、〈なつかしい呪文〉のように「ベルリン」と発話することできる。
呪文とは、いつまでもわたしにとって、いやあなたにとっても〈他者〉でありつづける、くちびるにやどったことばのことだ。
ふゆというときのくちびるのかたち 倉本朝世
【くちびるの森でとなえたなつかしい呪文】
なかはられいこさんが私の「しんりん、とくちびるがいう性的に」の句の評を書いてくださった(参照:「 おかじょうきとか、サムライジャパンとか 」『そらとぶうさぎ』)。
なかはらさんのことばを引用させていただくと、
この「しんりん」は「森林」なのですが、ひらがな表記によって、意味としての森林は初期化されています。はじめて出会うことばのように。そのうえ、ここではただの器官である「くちびる」に焦点が絞られています。そこに顔は無い。
だれかの口が発したであろう、ちょっと湿り気を帯びた「しんりん」という音の、セクシャルな語感を前面に、一度は初期化されながらもなお、読み手のあたまに残る森の持つ「性的」なイメージ(さまざまな生命体の存在する場)を背景に描かれた、奥行きの深い句ではないかと思うのです。
と、とてもていねいに書いていただいた(ありがとうございました!)。
① ひらがな表記に対する視点、② セクシャル・イメージの場としての森とくちびるの関わりの視点について、とても納得し、勉強させてもらいながら読んだ。
なかはらさんの、ひらがな表記とは意味の初期化なのではないか、という見解に、最近、川柳におけるひらがな表記のことについてずっと考えていたので、じぶんなりにいろいろ考えてみたりしてみた。
なかはらさんの視点を援用してすこし次の句についてかんがえてみたい。
倉本朝世さんの有名な句だ。
かなしくてベルリンと言う強く言う
この「ベルリン」はもちろん「ベルリン」のもつ記号的背景もあるかもしれない。
しかし、大事なことは二度繰り返される「言う」、とくに下五の「強く言う」である。
ここでは、「ベルリン」が想起されるよりも、「言う」という「ベルリン」の〈発話〉そのものに重心が置かれている。
つまり、表記としてはカタカナ表記であるものの、この「ベルリン」は語り手にとっては音節によってとなえると同時に耳に聴こえる「べるりん」でもあるのである。
しかし、「かなしくて」と上五にあるように、かなしみに起因する「ベルリン」をひらがな表記として語り手が「べるりん」と〈翻訳〉してしまうことを語り手は許していない。それは安易に解体され「初期化」されてはならないものなのだ。「かなしみ」は、容易に初期化することはできない。
だから、「ベルリン」はあくまで表記の翻訳ができない「ベルリン」として他者化されたままでなければならない。それは、くちびるに宿る他者として、初期化も、翻訳も容易にされてはならない「かなしみ」である。
でも、発話のちからもそこにある。わたしたちは、他者性をたたえたままに、〈なつかしい呪文〉のように「ベルリン」と発話することできる。
呪文とは、いつまでもわたしにとって、いやあなたにとっても〈他者〉でありつづける、くちびるにやどったことばのことだ。
ふゆというときのくちびるのかたち 倉本朝世
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