【感想】きれいな言葉を使ってきれいにしたような町できれいにぼくは育った 岡野大嗣
- 2015/07/27
- 12:00
きれいな言葉を使ってきれいにしたような町できれいにぼくは育った 岡野大嗣
【反復と事故】
岡野さんの歌集『サイレンと犀』を読んでいてだんだんと気がついてくるのは、〈反復〉という主題です。
ちなみにこれはこの歌集の装画・挿絵を担当されている安福望さんにもみられる主題です。
表紙も、犀の角のような三角旗の反復の装画になっています。
基本的には、詩とは、〈反復(リフレイン)〉です。
なぜなら、反復すると、ひとはきもちよいからです。舌のきもちよさが、反復です。
こないだ駅で電話しているひとがいたんですが、からだをゆっくり前後にゆらしているんですね。で、それは、ある意味で、あいてとしゃべりながら、みずからの音律をつくっているわけです。からだをゆらしながら、音律のなかでしゃべっている。それもひとつの詩なわけです(それを誇張して演劇化するとチェルフィッチュの演劇空間になります)。
たとえば歌なんかもそうですよね。必ずサビっていうのは反復するわけです。反復することで強調し、リズムの主調音を聴いているものにわかりやすく教える。サビの前でゆれたりぶれたりしてもサビにくればリズムがおもいだせるし、またその曲をおもいだすときにサビがおもいだせれば全体がおもいだせるわけです。
岡野さんの歌にもどります。
「きれい」が反復されていますよね。ただこの歌で注意しないといけないのは、「きれい」が反復されればされるほど「きれい」が「きれい」でなくなっていうという〈反復〉の〈反転〉にあります。
つまり「きれい」と執拗に反復するときに、その正反対の「きたない」が反復すればするほどせりあがってくるのです。なぜなら、「きれい」を反復し、構造化してゆくことは、同時にその裏面の「きたない」も構造化してゆくことになるからです(ちなみに岡野さんの歌集には「清潔/不潔」という主題もあるようにおもっているんですがそれはまた別の機会にかんがえてみたいとおもいます)。
で、反復の詩のちからとは、じつはここにあるのではないかとおもうんです。
反復は反復すればするほど〈失敗〉し、〈未遂〉してゆく。〈事故〉を起こしてしまう。〈伝達〉の。〈言葉の〉。それが、〈反転〉です。
それは安福さんの絵をみてもわかります。ひとつとひとつとひとつが、反復されてゆくときに、どれひとつとして同じ絵はありません。反復されているようにみえても、それは差異化され、ちがうかたちを積極的にとっています(そもそも水彩の基本的性質は再現の不可能性/反復不可能性にあります)。
岡野さんの短歌空間は反復そのものを執拗に繰り返しながらも、その反復が事故るしゅんかんをえがくことによって、まったく裏面を構造化し、音楽のサビの反復性とはちがった場所に読者を導いていきます。でもその〈事故〉こそが詩的瞬間なのではないかともおもうのです。
詩とは、きもちよさを伝えるとどうじに、きもちわるさをも読者に内包させることです。そのしゅんかんに、読者はきもちわるさとともに、ことばそのものの感触について考えるようにおもうのです。
すなわち、「きれいな言葉を使ってきれいにしたような町できれいにぼくは育った」と語るこの歌=言説は〈ほんとう〉に透明なのかどうか。この歌ではじまった歌集は、これからほんとうに「きれい」なことだけを歌おうとしているのか。それとも「きれい/きたない」のその相反し、せめぎあう「/」のはざかいのぶぶんをぎりぎりのラインで歌おうとしているのではないか、と。
ひとしれず磨り減ってゆく靴底のおかげで靴は靴でいられる 岡野大嗣
【反復と事故】
岡野さんの歌集『サイレンと犀』を読んでいてだんだんと気がついてくるのは、〈反復〉という主題です。
ちなみにこれはこの歌集の装画・挿絵を担当されている安福望さんにもみられる主題です。
表紙も、犀の角のような三角旗の反復の装画になっています。
基本的には、詩とは、〈反復(リフレイン)〉です。
なぜなら、反復すると、ひとはきもちよいからです。舌のきもちよさが、反復です。
こないだ駅で電話しているひとがいたんですが、からだをゆっくり前後にゆらしているんですね。で、それは、ある意味で、あいてとしゃべりながら、みずからの音律をつくっているわけです。からだをゆらしながら、音律のなかでしゃべっている。それもひとつの詩なわけです(それを誇張して演劇化するとチェルフィッチュの演劇空間になります)。
たとえば歌なんかもそうですよね。必ずサビっていうのは反復するわけです。反復することで強調し、リズムの主調音を聴いているものにわかりやすく教える。サビの前でゆれたりぶれたりしてもサビにくればリズムがおもいだせるし、またその曲をおもいだすときにサビがおもいだせれば全体がおもいだせるわけです。
岡野さんの歌にもどります。
「きれい」が反復されていますよね。ただこの歌で注意しないといけないのは、「きれい」が反復されればされるほど「きれい」が「きれい」でなくなっていうという〈反復〉の〈反転〉にあります。
つまり「きれい」と執拗に反復するときに、その正反対の「きたない」が反復すればするほどせりあがってくるのです。なぜなら、「きれい」を反復し、構造化してゆくことは、同時にその裏面の「きたない」も構造化してゆくことになるからです(ちなみに岡野さんの歌集には「清潔/不潔」という主題もあるようにおもっているんですがそれはまた別の機会にかんがえてみたいとおもいます)。
で、反復の詩のちからとは、じつはここにあるのではないかとおもうんです。
反復は反復すればするほど〈失敗〉し、〈未遂〉してゆく。〈事故〉を起こしてしまう。〈伝達〉の。〈言葉の〉。それが、〈反転〉です。
それは安福さんの絵をみてもわかります。ひとつとひとつとひとつが、反復されてゆくときに、どれひとつとして同じ絵はありません。反復されているようにみえても、それは差異化され、ちがうかたちを積極的にとっています(そもそも水彩の基本的性質は再現の不可能性/反復不可能性にあります)。
岡野さんの短歌空間は反復そのものを執拗に繰り返しながらも、その反復が事故るしゅんかんをえがくことによって、まったく裏面を構造化し、音楽のサビの反復性とはちがった場所に読者を導いていきます。でもその〈事故〉こそが詩的瞬間なのではないかともおもうのです。
詩とは、きもちよさを伝えるとどうじに、きもちわるさをも読者に内包させることです。そのしゅんかんに、読者はきもちわるさとともに、ことばそのものの感触について考えるようにおもうのです。
すなわち、「きれいな言葉を使ってきれいにしたような町できれいにぼくは育った」と語るこの歌=言説は〈ほんとう〉に透明なのかどうか。この歌ではじまった歌集は、これからほんとうに「きれい」なことだけを歌おうとしているのか。それとも「きれい/きたない」のその相反し、せめぎあう「/」のはざかいのぶぶんをぎりぎりのラインで歌おうとしているのではないか、と。
ひとしれず磨り減ってゆく靴底のおかげで靴は靴でいられる 岡野大嗣
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