【感想】内田百閒に「飛ぶ」と「伝う」が多しという気にかかりつつ酒飲んでいる 佐佐木幸綱
- 2015/07/29
- 01:00
急に恐ろしい気配がするので、私は慌てて起ち上がり、表の戸を開けて、外に出ようとしたら、出会いがしらに、大きな白い物が、目の前に起ちふさがった。
牛ぐらいもある大きな猫が、私の身体を押しのけて、家の中に這い込み、私が倒れた拍子に、胸の上を蹈みつけて、縁の下の方に行こうとしている。
内田百閒「梅雨韻」
内田百閒に「飛ぶ」と「伝う」が多しという気にかかりつつ酒飲んでいる 佐佐木幸綱
【飛ぶひゃっけん、伝うひゃっけん】
あ、そうなのか、ってわたしも気にかかりはじめたんですが、「飛ぶ」と「伝う」っていう相反する動詞がセットでこの歌にうめこまれてるのがおもしろいとおもうんですよ。
〈飛ぶ〉っていうのは環境や物理やハードウェアをある意味で無視して自由に動く行為です。建物があったとしてもそれらは問題外でふ。
一方、〈伝う〉は環境や物理やハードウェアに依存する行為です。伝ってゆくのですから、地理の形態がそのまま行為に影響を与えてゆきます。
つまりこの歌によれば、ひゃっけんの小説には相反するふたつの動詞がその両極端をマックスしてそれぞれに最大多数で行為していることになります。
ひゃっけんといえば、〈幻想小説〉でもあるし、たとえそれがエッセイでも語っているうちに、ことばそのものが前にせりだしてきて、現実から遊離したことばの空間に連れていかれるので、ある意味でことばを伝っているうちに離陸するかんじがあるとおもうんです。
しかも語り手は「酒」を飲んでいるんですが、語り手がひゃっけんを「気」にしだしたときに、ひゃっけんがなんどもおいしく描写した〈ビール〉のように「酒」に語り手が回収されてゆくのも、ある意味でひゃっけん的です。
語り手もまた、伝いつつ・飛んでゆくわけです。
ちなみに寺田寅彦のことばを通してひゃっけんが漱石の『三四郎』についてとてもおもしろいことをいってi、ある意味、ぶっとんでるんですが、でもバフチンのポリフォニー(多声性)をとおした漱石をある意味、寺田もひゃっけんもさきどりしているような気さえする。かれらがいったのは、
寺田寅彦さんが「『三四郎』はオペラですね」と言ったそうだけれども、ぼくもそうだと思う。ほんとに「三四郎」はオペラみたいなものですよ。
内田百閒『対談 日本の文学』
ひゃっけんの直筆原稿と署名本。ひゃっけんの原稿や署名本は(がんばってさがしてみてがんばって手に入れる決意をすれば)けっこう手に入りやすかったりする。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想