【感想】渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる 岡野大嗣
- 2015/07/29
- 07:20
渋滞のテールランプが汚くて綺麗でそこに今から混じる 岡野大嗣
きれいはきたない、きたないはきれい。闇と汚れの中を飛ぼう。 シェイクスピア『マクベス』
【きたなくて、きれい】
『短歌男子』の岡野さんの連作「巡りのリズム」から取ってみました。ちなみにこの歌は歌集『サイレンと犀』の「しずかなため息」にも収録されています。
この歌でわたしが考えてみたいのが、「汚くて綺麗」です。前回、岡野さんの感想文を書いたときに、岡野さんの短歌のひとつのテーマに「清潔/不潔」というテーマがあるんじゃないかと書いたんですが、この「汚くて綺麗」というのはそうしたテーマをあわせもつものとしてあるんじゃないかとおもうんです。
ただ「汚くて綺麗」ということばが示すように、「清潔/不潔」という二項対立で示せるようなものではなくて、それは〈汚い〉と〈綺麗〉が同時に共生できるような場所です。でもそれも「渋滞」や「ランプ」という〈一時的・偶発的〉に織りなされた場所でしか生まれないことも重要です。つまりそうした二項対立が解消され・止揚されるような「汚いは綺麗。綺麗は汚い」というマクベス的な場所を語り手は発見し、「そこに今から混じる」と〈積極的〉にみずからも引き受けようとしているのです。ある意味でそれが語り手の〈巡りのリズム〉なわけです。そしてそれは同時に〈しずかなため息〉という、ポジティヴでもネガティヴでもないあわいの、声にならない〈発話〉のなかにある。
ともだちはみんな雑巾ぼくだけが父の肌着で窓を拭いてる 岡野大嗣
岡野さんの歌集の「みんな雑巾」のなかからの一首です。「みんな雑巾」という連作タイトルが示すように、ある意味で「不潔/汚い」世界からとらえられている世界観なのですが、そこで語り手の「ぼくだけ」は「雑巾」ではなくて、「父の肌着」で拭いている。「みんな」は「雑巾」だからそれらを〈汚い〉ものとして主体と分離して扱うこともできるけれど、「ぼく」にとってそれが「父の肌着」である以上、父の肌着と父とぼくの主体は地続きであり、その〈雑巾〉を「みんな」のように〈雑巾〉とはいいきれず〈雑巾ではないかたち〉で引き受けなければならない。これも渋滞の歌とおなじく、「きれい/きたない」のそのあわいを自分でひきうけようとする歌なのではないかとおもうのです。
こんなふうに、岡野さんの短歌の世界のひとつの主体のありかたとして、二項対立をたちあげながらも、そのどちらかをつきつめるのではなく、そのあわいをひきうけようとする主体があるのではないか。
岡野さんが、短歌とは〈ため息〉のようなものではないかと「あとがき」に書かれていたのだけれど、岩松了によれば、ため息とは表情にならなかったことばであり、しかしそれゆえになによりも雄弁に語ることばです。
そうしたことばのあわいをひきうけるあわいの主体を描くこと。それが〈ため息を尊重する主体〉なのではないかとおもうのです。
演劇をする上で自分が依って立つ理論としてきたもの、などと言ったが、平たく言えば「セリフは言葉の意味どおりのことを伝えはしない」ということだろう。費やされた数々の言葉よりも、ひとつの溜息が、より多くのことを伝える状況も大いにありうるわけだ。小説の中に、そんなセリフを見つけた時、私は嬉しい。そんな思いからの《溜息に似た言葉》だった。
岩松了「あとがき」『溜息に似た言葉』
きれいはきたない、きたないはきれい。闇と汚れの中を飛ぼう。 シェイクスピア『マクベス』
【きたなくて、きれい】
『短歌男子』の岡野さんの連作「巡りのリズム」から取ってみました。ちなみにこの歌は歌集『サイレンと犀』の「しずかなため息」にも収録されています。
この歌でわたしが考えてみたいのが、「汚くて綺麗」です。前回、岡野さんの感想文を書いたときに、岡野さんの短歌のひとつのテーマに「清潔/不潔」というテーマがあるんじゃないかと書いたんですが、この「汚くて綺麗」というのはそうしたテーマをあわせもつものとしてあるんじゃないかとおもうんです。
ただ「汚くて綺麗」ということばが示すように、「清潔/不潔」という二項対立で示せるようなものではなくて、それは〈汚い〉と〈綺麗〉が同時に共生できるような場所です。でもそれも「渋滞」や「ランプ」という〈一時的・偶発的〉に織りなされた場所でしか生まれないことも重要です。つまりそうした二項対立が解消され・止揚されるような「汚いは綺麗。綺麗は汚い」というマクベス的な場所を語り手は発見し、「そこに今から混じる」と〈積極的〉にみずからも引き受けようとしているのです。ある意味でそれが語り手の〈巡りのリズム〉なわけです。そしてそれは同時に〈しずかなため息〉という、ポジティヴでもネガティヴでもないあわいの、声にならない〈発話〉のなかにある。
ともだちはみんな雑巾ぼくだけが父の肌着で窓を拭いてる 岡野大嗣
岡野さんの歌集の「みんな雑巾」のなかからの一首です。「みんな雑巾」という連作タイトルが示すように、ある意味で「不潔/汚い」世界からとらえられている世界観なのですが、そこで語り手の「ぼくだけ」は「雑巾」ではなくて、「父の肌着」で拭いている。「みんな」は「雑巾」だからそれらを〈汚い〉ものとして主体と分離して扱うこともできるけれど、「ぼく」にとってそれが「父の肌着」である以上、父の肌着と父とぼくの主体は地続きであり、その〈雑巾〉を「みんな」のように〈雑巾〉とはいいきれず〈雑巾ではないかたち〉で引き受けなければならない。これも渋滞の歌とおなじく、「きれい/きたない」のそのあわいを自分でひきうけようとする歌なのではないかとおもうのです。
こんなふうに、岡野さんの短歌の世界のひとつの主体のありかたとして、二項対立をたちあげながらも、そのどちらかをつきつめるのではなく、そのあわいをひきうけようとする主体があるのではないか。
岡野さんが、短歌とは〈ため息〉のようなものではないかと「あとがき」に書かれていたのだけれど、岩松了によれば、ため息とは表情にならなかったことばであり、しかしそれゆえになによりも雄弁に語ることばです。
そうしたことばのあわいをひきうけるあわいの主体を描くこと。それが〈ため息を尊重する主体〉なのではないかとおもうのです。
演劇をする上で自分が依って立つ理論としてきたもの、などと言ったが、平たく言えば「セリフは言葉の意味どおりのことを伝えはしない」ということだろう。費やされた数々の言葉よりも、ひとつの溜息が、より多くのことを伝える状況も大いにありうるわけだ。小説の中に、そんなセリフを見つけた時、私は嬉しい。そんな思いからの《溜息に似た言葉》だった。
岩松了「あとがき」『溜息に似た言葉』
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