【感想】寄り弁をやさしく直す箸 きみは何でもできるのにここにいる 雪舟えま
- 2014/06/13
- 22:17
寄り弁をやさしく直す箸 きみは何でもできるのにここにいる
なめらかにちんちんの位置なおした手あなたの過去のすべてがあなた 雪舟えま
【語り手が立ち会うふたつの誤差修正】
少し異色な読みかもしれないんですが、雪舟さんの短歌をもう一首の雪舟さんの短歌とかけあわせて読んでみる、といったことをしてみたいと思います。
この二首にはふたつの共通点があります。ひとつめは、どちらも〈直す〉=修正することによって語り手の視線が生起しはじめる点、ふたつめは、きみ=あなたへのまなざしが一点凝縮するかたちでうたが集束していく点。
最終的に「あなた」に関するまなざしのありかたが異なってくるのは、寄り弁のほうは、「何でもできるのにここにいる」と「きみ」の〈いま、ここ〉に未来をも含めるかたちでうたが集束していく点。ちんちんのほうは「過去のすべてがあなた」と過去をもふくめる点で〈いま、ここ〉に集束している点です。
もっとわけいってみると、寄り弁のほうが「ここ」と場所がポイントになっっており、ちんちんのほうは「あなた」と主体がポイントになっています。
なぜおなじ誤差修正のうたでも着地点が異なるうたになったのか。
寄り弁とちんちんの位置のちがいに注目してみます。
寄り弁とは、一回的な誤差です。毎回毎回おなじ寄り弁がつくられるわけではなく、そのひとがその日どんなふうに行動したかによって生の軌跡がそのまま重力として形象化されるのが寄り弁です。だからそれは語り手にとって「きみ」のきょうのこれまでの軌跡です。しかしこの誤差修正は弁当なので直した瞬間、つまり寄り弁が寄り弁でなくなった瞬間、修正したといういま、ここにおけるアクションとともに消える運命にあります。語り手がきみと共有した「やさしく直す」アクションも弁当とともに消える運命にあるのです。だから語り手のまなざしは〈いま、ここ〉への力点=重みとしてそそがれます。〈いま、ここ〉を結晶化しなければならないのです。それは、食べられ、きえてしまうものだから。「何でもできるのにここにいる」ことは〈いま、ここ〉で語り手だけが感じることのできるきわめて一回的な行為です。きみのまえにあとどれだけたくさんのひとが現れて寄り弁を直す姿を目撃したとしても、その寄り弁はいまここにるような寄り弁ではないし、なれないのです。だからこそ「ここにいる」ことは非常に重要なのです。
一方、ちんちんの位置はどうでしょう。「ちんちんの位置を直す手」をもつ「あなた」はこれまでその「手」でなんども「ちんちんの位置」を直してきているはずです。これはそのひとの身体のそれまでの蓄積された文法の話なはずです。「なめらかに」はまさに「あなた」が意識しなくても無意識できちんと「ちんちんの位置」を直せることを示しています。だからこそ語り手が目撃しているのは過去の時間が堆積した語り手と直されるちんちんと語り手の直すその手です。でももしかしたらそれはあとからやってくるちがうひとも目撃するかもしれません。「あなたの過去のすべてがあなた」と下の句において「ここ」という共有できる場所もないまま、語り手がはいりこむ余地がなかったということはそのような切なさとしてあらわれているようにもおもいます。
つまりこの二首はこのようにまとめることができるのではないかとおもいます。
寄り弁のうたは、語り手が、語り手だけが目撃することのできた、いまここだけの誤差修正のうたです。
ちんちんのうたは、語り手が目撃した、それまでもこれからもたくさんのひとが目撃するかもしれない、その意味で切なさをかかえた誤差修正のうたです。
というふうに、二首のうたを並べて感想を書いてみました。
語り手にとってきみやあなたが消えないようにするためには、きみかあなたがなにかの決断を、語り手にとって決定的にかけがえのない決断をしなければならないようにおもいます。それは、語り手の生のまなざしの誤差修正としてもあらわれるかもしれません。すなわち、
君がもう眼鏡いらなくなるようにいつか何かにおれはなります 雪舟えま
なめらかにちんちんの位置なおした手あなたの過去のすべてがあなた 雪舟えま
【語り手が立ち会うふたつの誤差修正】
少し異色な読みかもしれないんですが、雪舟さんの短歌をもう一首の雪舟さんの短歌とかけあわせて読んでみる、といったことをしてみたいと思います。
この二首にはふたつの共通点があります。ひとつめは、どちらも〈直す〉=修正することによって語り手の視線が生起しはじめる点、ふたつめは、きみ=あなたへのまなざしが一点凝縮するかたちでうたが集束していく点。
最終的に「あなた」に関するまなざしのありかたが異なってくるのは、寄り弁のほうは、「何でもできるのにここにいる」と「きみ」の〈いま、ここ〉に未来をも含めるかたちでうたが集束していく点。ちんちんのほうは「過去のすべてがあなた」と過去をもふくめる点で〈いま、ここ〉に集束している点です。
もっとわけいってみると、寄り弁のほうが「ここ」と場所がポイントになっっており、ちんちんのほうは「あなた」と主体がポイントになっています。
なぜおなじ誤差修正のうたでも着地点が異なるうたになったのか。
寄り弁とちんちんの位置のちがいに注目してみます。
寄り弁とは、一回的な誤差です。毎回毎回おなじ寄り弁がつくられるわけではなく、そのひとがその日どんなふうに行動したかによって生の軌跡がそのまま重力として形象化されるのが寄り弁です。だからそれは語り手にとって「きみ」のきょうのこれまでの軌跡です。しかしこの誤差修正は弁当なので直した瞬間、つまり寄り弁が寄り弁でなくなった瞬間、修正したといういま、ここにおけるアクションとともに消える運命にあります。語り手がきみと共有した「やさしく直す」アクションも弁当とともに消える運命にあるのです。だから語り手のまなざしは〈いま、ここ〉への力点=重みとしてそそがれます。〈いま、ここ〉を結晶化しなければならないのです。それは、食べられ、きえてしまうものだから。「何でもできるのにここにいる」ことは〈いま、ここ〉で語り手だけが感じることのできるきわめて一回的な行為です。きみのまえにあとどれだけたくさんのひとが現れて寄り弁を直す姿を目撃したとしても、その寄り弁はいまここにるような寄り弁ではないし、なれないのです。だからこそ「ここにいる」ことは非常に重要なのです。
一方、ちんちんの位置はどうでしょう。「ちんちんの位置を直す手」をもつ「あなた」はこれまでその「手」でなんども「ちんちんの位置」を直してきているはずです。これはそのひとの身体のそれまでの蓄積された文法の話なはずです。「なめらかに」はまさに「あなた」が意識しなくても無意識できちんと「ちんちんの位置」を直せることを示しています。だからこそ語り手が目撃しているのは過去の時間が堆積した語り手と直されるちんちんと語り手の直すその手です。でももしかしたらそれはあとからやってくるちがうひとも目撃するかもしれません。「あなたの過去のすべてがあなた」と下の句において「ここ」という共有できる場所もないまま、語り手がはいりこむ余地がなかったということはそのような切なさとしてあらわれているようにもおもいます。
つまりこの二首はこのようにまとめることができるのではないかとおもいます。
寄り弁のうたは、語り手が、語り手だけが目撃することのできた、いまここだけの誤差修正のうたです。
ちんちんのうたは、語り手が目撃した、それまでもこれからもたくさんのひとが目撃するかもしれない、その意味で切なさをかかえた誤差修正のうたです。
というふうに、二首のうたを並べて感想を書いてみました。
語り手にとってきみやあなたが消えないようにするためには、きみかあなたがなにかの決断を、語り手にとって決定的にかけがえのない決断をしなければならないようにおもいます。それは、語り手の生のまなざしの誤差修正としてもあらわれるかもしれません。すなわち、
君がもう眼鏡いらなくなるようにいつか何かにおれはなります 雪舟えま
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