【お知らせ】ウェブマガジン『アパートメント』のはらだ有彩さん毎月連載「日本のヤバい女の子」の今月の「運命とヤバい女の子」のレビュー
- 2015/08/01
- 21:00
ホーンテッドマンションにはこんなナレーションが入る。「この館は嬉しいほどに住みにくい」。これって運命に似ているのではないだろうか。すなわち、住みにくいからこそ、生きる嬉しさが生じるのだと
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第三回目の今月のはりーさんの文章は「運命とヤバい女の子 」という〈怪談・累ヶ淵〉の運命と女の子をめぐるエッセイです。
わたしよく、ホーンテッドマンションの1000人目のゴーストになりたいなと思っていたんですが、なんとはりーさんもおなじことをかんがえていたんですね。
で、今回のはりーさんのお話は、そういう〈わたしが亡霊になること〉を選んだ運命をめぐる文章です。
はりーさんの文章を読みながら、運命っていうのは、《呼びかけられる》ものなのではなく、みずからたえず《呼びかけていく》ことなのではないかとも、おもいました。
流れるプール、のようなものではなく、流れもないプールで、とうとうと流されてゆくじぶん。おういどうした、というゆうじん。だいじょうぶ、じぶんで流れているんだよ、というわたし。うんめいなんだよ、と。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。ロラン・バルトの〈希望・行動・運命〉をめぐることばから今回ははじめてみました。よくわたしが思い返していることばです。
※ ※
少しでも希望があるのならおまえは行動する。希望はまったくないけれど、それでもなおわたしは……あるいはまた、わたしは断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでも続けるのだ。
ロラン・バルト「行動」
*
今回のはりーさんのエッセイは怪談・累ヶ淵と〈運命〉をめぐるお話でした。
「死んだら…幽霊になりたい。ディズニー・ランドのアトラクション、陽気な「ホーンテッドマンション」が理想の死語の暮らしです」と語るはりーさんですが、わたしも実はホーンテッドマンションに行くたびに、ここの1000人目のゴーストになれたらいいのにな、と思っていた時期がありました。
ホーンテッドマンションには999人の亡霊がいて、1000人目をいつでも出迎えているのです。
でもホーンテッドマンションを、ホーンテッドマンションの前に広大に展開する墓場を抜けてもやっぱりわたしはわたしで生者として千葉に降り立つのです。わたしがどんな場所を、どんなにファンタスティックな場所を抜けても、わたしはわたしとして生きるしかないことを感じとりながら。
ディズニーランドはそんなことを教えてくれる場所でもある。巨大なひとつの〈あきらめ〉として。
ホーンテッドマンションには、こんなナレーションが入ります。
「この館は、嬉しいほどに住みにくい」と。
これって、〈運命〉にすこし似ているのではないでしょうか。
〈運命〉を生きようとしたり、住み込もうとすることは、ときに「住みにくい」ことが多いかもしれない。じぶんが考えていた、思っていたものとはちがうことが多いかもしれない。おそらく怨霊となった累(かさね)もそんなふうに感じていたはずです。この世界にディズニーランドのような場所なんてないじゃないか、と。わたしはホーンテッドマンションにさえすめない、わたしを殺した男を怨んで怨んで怨みつづける怨霊にしかなれないと。
〈運命〉とは、ホーンテッドマンションのナレーションにしたがえば、「凍るような寒さになったり、焼けつくような暑さ」のえんえんと延びる〈長い廊下〉をときに味わう場所かもしれない。
けれども、やはりホーンテッドマンションのナレーションにしたがえば、その「住みにくさ」こそが「嬉しさ」につながることもあることが大事なのではないかともおもうのです。〈それでも生きる〉ことの〈力強さ〉につながってゆくことが。
なぜなら、「累(かさね)」が〈それでも〉亡霊として生きることを〈選んだ〉ように、〈運命〉とは実はわたしが、いま・ここで、ほかにななにも考えられず、〈こう〉しようと思っておこなう〈選択〉だからです。
たしかに〈運命〉は〈住みにくい〉かもしれないけれども、わたしはいま・ここで〈これ〉を選択しようとおもった。その他の選択肢は、わたしがこれから生きていくうえで要らないとおもった。この・これだけが、わたしは大事だとおもった。この・これだけが欲しいとおもった、生きようとおもった。どんなにこの選択があやまちであっても、住みにくかったとしても、わたしはこの選択肢を生きることに〈意味〉を感じた。
それが〈運命〉なのではないでしょうか。運命から働きかけられるわたしなのではなく、運命に働きかけるわたしこそが。このわたしそのものがアトラクションになることが。
はりーさんは書いています。「かさねは彼女自身として生きた」そして「私は確かにここにいる。そして暴れることができる」と。
はりーさんにしたがって、わたしもいつでも「暴れる」ことをはじめることができる「ここ」をもって生きていることを大事にしたいと思うのです。その「ここ」を忘れないでいることが〈運命〉だということを〈積極的〉に思い出していたいとおもうのです。あきらめながら。でもあきらめてもあきらめてもつっぷしてもつっぷしてもたちあがってくるあふれるちからに、つきうごかされながら。
*
ぼうっとしているあいだに月日は流れ、私はもう、おばあさんだ。年齢を重ねていくと、あきらめることが増えていく。それがとても楽しい。様々なことをあきらめていく。失恋が好き。あの人をあきらめられる。失業が好き。買い物をあきらめられる。あきらめていくと、素っ気ない私が見えてくる。自分が明らかになっていく。…あきらめてもあきらめてもしぶとく私が残る。どんどんあきらめていくと、飲み干したあとの、ラムネ瓶で揺れるビー玉のように、自分の芯だけが、自分の体の中で、カランコロンと音を立てて残る。そのビー玉は、なんでもやりたがるし、どこまでも転がる。…どんなに捨てても、立ちのぼる欲望だ。丸い指、薄いまぶた、太いもも、これが私だ。あきらめてもあきらめても、生きていける。自分は、すごい。
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