【こわい短歌 番外篇】(原形をたとえ留めていなくとも)おうちに帰るまでが遠足 龍翔
- 2015/08/05
- 12:00
(原形をたとえ留めていなくとも)おうちに帰るまでが遠足 龍翔
【おうち至上主義者たちの遠足】
「こわい川柳 番外篇」の〈こわい短歌〉です。
「おうちに帰るまでが遠足」って金科玉条としてよくいわれますよね。
それはなぜかっていうと、遠足が終わってうかれ気分やへろへろ気分で帰り道をあるいているとあぶないめにあうばあいがあるからですよね。
ただ、この歌の場合、ことばの方が内実をこえて、なにがなんでも死守しなければならない《鉄則》になっています。
つまりこういうことです。
遠足の帰り道にあぶないめにあったっていい、家に帰りつけさえすれば。
ともかく〈わたし〉がどんなかたちであれ「おうち」にたどりつくこと。そうした「おうち」至上主義者による短歌になっているわけです。
この「(原形をたとえ留めていなくとも)」っていうのは、ゾンビ映画とも通底するぶぶんがあるんじゃないかともおもいます。
ロメロの『ゾンビ』では原形をとどめないひと=ゾンビたちがそれでも生前の記憶とともにショッピングモールに集まってきます。
ゾンビになるとそういった〈習慣〉としての原形的な本能にもとづいて消費者にとっての「おうち」でもあるショッピングモールに集まってくる。
ゾンビなのでなにかを買うわけではない。ただ「おうち」にさえいればいいのです。デパートというショッピングモールがただ〈うろうろ〉するだけで視線を消費できるように構造化されているように。
もしかしたら、わたしたちの「おうち」は実はいろんな場所にあって、わたしたちは「原形」を失いながらも、消費者として「おうち巡り」をしているかもしれない。
そんなこともおもわせるこわい短歌です。
「そうだとは知らずに」わたしたちはいろんな「おうち」にいるのです。
そうだとは知らずに足を踏み入れて抜け出せなくなる泥沼がすき 龍翔
【おうち至上主義者たちの遠足】
「こわい川柳 番外篇」の〈こわい短歌〉です。
「おうちに帰るまでが遠足」って金科玉条としてよくいわれますよね。
それはなぜかっていうと、遠足が終わってうかれ気分やへろへろ気分で帰り道をあるいているとあぶないめにあうばあいがあるからですよね。
ただ、この歌の場合、ことばの方が内実をこえて、なにがなんでも死守しなければならない《鉄則》になっています。
つまりこういうことです。
遠足の帰り道にあぶないめにあったっていい、家に帰りつけさえすれば。
ともかく〈わたし〉がどんなかたちであれ「おうち」にたどりつくこと。そうした「おうち」至上主義者による短歌になっているわけです。
この「(原形をたとえ留めていなくとも)」っていうのは、ゾンビ映画とも通底するぶぶんがあるんじゃないかともおもいます。
ロメロの『ゾンビ』では原形をとどめないひと=ゾンビたちがそれでも生前の記憶とともにショッピングモールに集まってきます。
ゾンビになるとそういった〈習慣〉としての原形的な本能にもとづいて消費者にとっての「おうち」でもあるショッピングモールに集まってくる。
ゾンビなのでなにかを買うわけではない。ただ「おうち」にさえいればいいのです。デパートというショッピングモールがただ〈うろうろ〉するだけで視線を消費できるように構造化されているように。
もしかしたら、わたしたちの「おうち」は実はいろんな場所にあって、わたしたちは「原形」を失いながらも、消費者として「おうち巡り」をしているかもしれない。
そんなこともおもわせるこわい短歌です。
「そうだとは知らずに」わたしたちはいろんな「おうち」にいるのです。
そうだとは知らずに足を踏み入れて抜け出せなくなる泥沼がすき 龍翔
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