【お知らせ】「【短歌と漫画】ボクらの身体、または平坦な身体の戦場で-岡野大嗣・市川春子・浅野いにお-」『BLOG俳句新空間 第23号』
- 2015/08/08
- 16:07
『 BLOG俳句新空間 第23号』にて「【短歌と漫画】ボクらの身体、または平坦な身体の戦場で-岡野大嗣・市川春子・浅野いにお-」という文章を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
「と」、とは、明確な境界線の明示を使命として持ち、並置された二要素のみだりな溶解や性急な二者択一、一方から他方への演繹または帰納、あるいは弁証法的な対立関係を先験的に生きるものではない。 蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』
やり終えてうろんな人になる夜明け 竹井紫乙
ここ一ヶ月ずっとある機会をいただいて、岡野大嗣さん、安福望さん、竹井紫乙さんのさんにんの本を読んでいました。
彼女/彼の短歌・絵・川柳をめぐってずっとかんがえごとをしていたのですが、さんにんをめぐってひとつ思ったのは、表現というのは〈二面性〉や〈両極性〉があって、その〈二面性〉や〈両極性〉をそのままどちらもマックスのかたちでうちだせるからこその表現/表現者なんじゃないかということでした。
たとえばある一方の極みやマックスを打ち出したいのであれば、メッセージを書けばいいわけです。伝達としての檄を飛ばせばいい。そういう一義的な極みは、メッセージと呼ばれている。
ところがかのじょ/かれらの表現にはそれぞれの極みがマックスででていて、〈二面性〉がどちらもマックスのかたちででている。そこからひとは、さまざまなテーマをひっぱりだすことができる。おもいがけないかたちで。そういう表現をめぐる〈ゆくりなさ〉は、表現がメッセージじゃないからできるわけです。
だからこのさんにんの本を読んでいて感じたのは、かのじょ/かれらがいろんな相反するテーマを結びつけるその接合点にいるような〈と〉のひと、〈と〉の表現そのものであるということでした。
じゃあそうした〈と性〉そのものをかんがえるいちばんいい表現メディアはなんだろうとかんがえたときに思いついたのが、漫画と身体でした。漫画はわたしたちの絵〈と〉ことばをあわせもつ表現メディアだし、身体はわたしたちのことば〈と〉非ことばをかかえもつ表現メディアです。
今回は岡野さんの短歌をめぐって漫画との身体的遠近感をかんがえてみたけれど、わたしはこのさんにんの本を読みながら、ずっと、〈と〉の分節しがたいグラデーションについて、かんがえていました。
ちなみに楽屋でわたしが、今回ととととライブに呼んでいただいたのはわたしの名前(やぎもともともと)にあまりにも「と」が入っているからですか? と岡野さんと安福さんにうかがったら、はぁちがいます、といわれたのが印象的でした。そのあとさんにんでボバフェッ「ト」のジェッ「ト」パックの話をしたのですが、岡野さんはボバフェットが青空へ上昇する「と」を「to」と、わたしはボバフェットがやはり大空へ飛翔する「と」を「途」ではないかと推測しました。
楽屋で同じ年代の岡野さんと安福さんのお話をさせていただきながら、わたしはかつてネイティヴアメリカンがずっと言い伝えとして伝承していたという伝説の《偉大なると》について思いを巡らしました。その《と》は「大いなるつぎはぎの鷲(わし)」と呼ばれていたらしい! とわたしが興奮してもろてをふりながら話すと岡野さんと安福さんがゆっくりと深くうなずきました。わたしはそのとき、なにがあってもだいじょうぶだ、とおもいました。だいじょうぶだ、と。
木下龍也さんの「鯛めしタイムマシン」朗読ラップや、長谷川健一さんの歌、岡野/安福さんの話をききながら、ひとはそれぞれがじぶんだけの「と」をもっていい、そしてその「と」から次のあたらしい「と」へと向かって生きていけばいい、その「と」の過程でいろんなひとと思いがけなく出会っていけばいい、そうしてじんせいの最後にふいうちのようにこれまでのすべてをむすびつけるシークレットの《ファイナルと》を手にいれればいい、そんなことを教えてもらったととととライブでした。
そうしてライブをあとにしたわたしは、背中の新調したばかりのジェットパックで大阪から東京へと帰ったのです。雲、かきわけながら。
大声で話しかけたくなる雲だ 竹井紫乙
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
「と」、とは、明確な境界線の明示を使命として持ち、並置された二要素のみだりな溶解や性急な二者択一、一方から他方への演繹または帰納、あるいは弁証法的な対立関係を先験的に生きるものではない。 蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』
やり終えてうろんな人になる夜明け 竹井紫乙
ここ一ヶ月ずっとある機会をいただいて、岡野大嗣さん、安福望さん、竹井紫乙さんのさんにんの本を読んでいました。
彼女/彼の短歌・絵・川柳をめぐってずっとかんがえごとをしていたのですが、さんにんをめぐってひとつ思ったのは、表現というのは〈二面性〉や〈両極性〉があって、その〈二面性〉や〈両極性〉をそのままどちらもマックスのかたちでうちだせるからこその表現/表現者なんじゃないかということでした。
たとえばある一方の極みやマックスを打ち出したいのであれば、メッセージを書けばいいわけです。伝達としての檄を飛ばせばいい。そういう一義的な極みは、メッセージと呼ばれている。
ところがかのじょ/かれらの表現にはそれぞれの極みがマックスででていて、〈二面性〉がどちらもマックスのかたちででている。そこからひとは、さまざまなテーマをひっぱりだすことができる。おもいがけないかたちで。そういう表現をめぐる〈ゆくりなさ〉は、表現がメッセージじゃないからできるわけです。
だからこのさんにんの本を読んでいて感じたのは、かのじょ/かれらがいろんな相反するテーマを結びつけるその接合点にいるような〈と〉のひと、〈と〉の表現そのものであるということでした。
じゃあそうした〈と性〉そのものをかんがえるいちばんいい表現メディアはなんだろうとかんがえたときに思いついたのが、漫画と身体でした。漫画はわたしたちの絵〈と〉ことばをあわせもつ表現メディアだし、身体はわたしたちのことば〈と〉非ことばをかかえもつ表現メディアです。
今回は岡野さんの短歌をめぐって漫画との身体的遠近感をかんがえてみたけれど、わたしはこのさんにんの本を読みながら、ずっと、〈と〉の分節しがたいグラデーションについて、かんがえていました。
ちなみに楽屋でわたしが、今回ととととライブに呼んでいただいたのはわたしの名前(やぎもともともと)にあまりにも「と」が入っているからですか? と岡野さんと安福さんにうかがったら、はぁちがいます、といわれたのが印象的でした。そのあとさんにんでボバフェッ「ト」のジェッ「ト」パックの話をしたのですが、岡野さんはボバフェットが青空へ上昇する「と」を「to」と、わたしはボバフェットがやはり大空へ飛翔する「と」を「途」ではないかと推測しました。
楽屋で同じ年代の岡野さんと安福さんのお話をさせていただきながら、わたしはかつてネイティヴアメリカンがずっと言い伝えとして伝承していたという伝説の《偉大なると》について思いを巡らしました。その《と》は「大いなるつぎはぎの鷲(わし)」と呼ばれていたらしい! とわたしが興奮してもろてをふりながら話すと岡野さんと安福さんがゆっくりと深くうなずきました。わたしはそのとき、なにがあってもだいじょうぶだ、とおもいました。だいじょうぶだ、と。
木下龍也さんの「鯛めしタイムマシン」朗読ラップや、長谷川健一さんの歌、岡野/安福さんの話をききながら、ひとはそれぞれがじぶんだけの「と」をもっていい、そしてその「と」から次のあたらしい「と」へと向かって生きていけばいい、その「と」の過程でいろんなひとと思いがけなく出会っていけばいい、そうしてじんせいの最後にふいうちのようにこれまでのすべてをむすびつけるシークレットの《ファイナルと》を手にいれればいい、そんなことを教えてもらったととととライブでした。
そうしてライブをあとにしたわたしは、背中の新調したばかりのジェットパックで大阪から東京へと帰ったのです。雲、かきわけながら。
大声で話しかけたくなる雲だ 竹井紫乙
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