【感想】ほんとうのこと(今日世界で死に果てた羽虫の総数など)を知りたい 田中ましろ
- 2014/06/14
- 16:08
ほんとうのこと(今日世界で死に果てた羽虫の総数など)を知りたい 田中ましろ
【かたすみソムリエのほんとうのこと】
田中ましろさんのこの短歌にはひとつの〈諦念〉、あきらめとしてのモチーフがうかがえるように思うんです。
でもその諦念というのは、なにかがピックアップされることによってあきらめざるをえないという、こんないいかたをあえてしてみるならば、〈対位法的諦念〉です。
語り手が選んいとったものがあるのだけれども、同時に選び取ったものと響きあうかたちで選び取れなかったものが交響している。そういった、〈あきらめの二重奏〉のようなものが短歌のなかに折り畳まれているようにおもうんです。
うえの羽虫の短歌なんですが、語り手は「ほんとうのことを知りたい」と思っています。
では、語り手にとって「ほんとうのこと」とはなにかといえば「今日世界で死に果てた羽虫の総数など」です。これは私は不可能な表象として、入り口だけはわかるものの決して到達できず知ることができないような言表不能な表象としての比喩のように思うんです。
つまりここではなにが奏でられているかというと、「ほんとうのことを知りたい」という語り手の意志と、そう発話した瞬間にあきらめざをえない世界の「ほんとう」です。語り手はおそらく「ほんとう」にたどりつけないことを知っています。でも、たどりつけないことをうたうというまさにそのことによって語り手にとっての「ほんとう」とはなにかをうたにすることはできています。ほんとう化することはできないが、しかしそれでもうたうことによって意志しつづけることのほんとうはあらわれる。それがこの語り手にとっての「ほんとう」なんじゃないかと思うんです。
田中ましろさんの歌集のタイトルは、『かたすみさがし』です。世界のほんとう=本丸=中心ではなく、世界の〈かたすみ〉がいかにあらわれ、しかしその〈かたすいみ〉を中心にすえおき歌にしたときに、中心化しようとしたがために挫折してしまう。それが、〈かたすみさがし〉ということではないかとおもうんです。かたすみとは、中心化することのできない、関係的な、対位法的な場所です。
選ぶことは、どうじに、選ばなかったものと響きあうことです。ひとは、選べなかったものは捨てなければならないけれど、でも〈かたすみ〉をいだきつづけることによって、選べなかったものも捨てることなく担保している可能性だってあるのかもしれません。
対位法的な生の技法とはそういうものなのではないかとおもうのです。そうして、だれもがいちどは、選べなかったものについて思いを馳せ、〈かたすみさがし〉のプロになるのではないかと。
春の日に手を振っている向かい合うことは誰かに背を向けること 田中ましろ
【かたすみソムリエのほんとうのこと】
田中ましろさんのこの短歌にはひとつの〈諦念〉、あきらめとしてのモチーフがうかがえるように思うんです。
でもその諦念というのは、なにかがピックアップされることによってあきらめざるをえないという、こんないいかたをあえてしてみるならば、〈対位法的諦念〉です。
語り手が選んいとったものがあるのだけれども、同時に選び取ったものと響きあうかたちで選び取れなかったものが交響している。そういった、〈あきらめの二重奏〉のようなものが短歌のなかに折り畳まれているようにおもうんです。
うえの羽虫の短歌なんですが、語り手は「ほんとうのことを知りたい」と思っています。
では、語り手にとって「ほんとうのこと」とはなにかといえば「今日世界で死に果てた羽虫の総数など」です。これは私は不可能な表象として、入り口だけはわかるものの決して到達できず知ることができないような言表不能な表象としての比喩のように思うんです。
つまりここではなにが奏でられているかというと、「ほんとうのことを知りたい」という語り手の意志と、そう発話した瞬間にあきらめざをえない世界の「ほんとう」です。語り手はおそらく「ほんとう」にたどりつけないことを知っています。でも、たどりつけないことをうたうというまさにそのことによって語り手にとっての「ほんとう」とはなにかをうたにすることはできています。ほんとう化することはできないが、しかしそれでもうたうことによって意志しつづけることのほんとうはあらわれる。それがこの語り手にとっての「ほんとう」なんじゃないかと思うんです。
田中ましろさんの歌集のタイトルは、『かたすみさがし』です。世界のほんとう=本丸=中心ではなく、世界の〈かたすみ〉がいかにあらわれ、しかしその〈かたすいみ〉を中心にすえおき歌にしたときに、中心化しようとしたがために挫折してしまう。それが、〈かたすみさがし〉ということではないかとおもうんです。かたすみとは、中心化することのできない、関係的な、対位法的な場所です。
選ぶことは、どうじに、選ばなかったものと響きあうことです。ひとは、選べなかったものは捨てなければならないけれど、でも〈かたすみ〉をいだきつづけることによって、選べなかったものも捨てることなく担保している可能性だってあるのかもしれません。
対位法的な生の技法とはそういうものなのではないかとおもうのです。そうして、だれもがいちどは、選べなかったものについて思いを馳せ、〈かたすみさがし〉のプロになるのではないかと。
春の日に手を振っている向かい合うことは誰かに背を向けること 田中ましろ
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