【感想】幸せに僕がなってもいいのですずっと忘れていたことですが 牛隆佑
- 2015/08/12
- 12:00
幸せに僕がなってもいいのですずっと忘れていたことですが 牛隆佑
【助詞 対 記憶】
短歌は記憶と関わりが深い表現メディアだとおもうんですが、災事が起こると定型詩がとつぜん増えるとはよく指摘されることです。
それもある意味、とつぜん受け入れがたいことが起こって〈記憶〉を〈再編〉しようとする動きからきているんじゃないかとおもうんです。
定型っていうのは、じぶんのほしいがままにはできない、じぶんが記憶したいようには記憶できないメディアです。
ところがその〈ほしいがままにはできない性〉によってかりそめの〈共同体的記憶〉のような質感ができる。
だんだん〈わたし〉が語っているのか、〈定型〉が語っているのかわからなくなるのも、また、定型詩だとおもうんです。
だから、定型詩は記憶をとどめながらも、記録を攪拌していく。
そういう記憶と記録のあわいのようなところに定型詩がある。
記憶と記録のあわいに定型詩があるのは、個人と共同体のあわいにいるからなんだということもできる。
そのときにこの牛さんの歌は〈短歌〉という表現メディアをとおしたことでふしぎな質感をもつとおもうんです。
この歌は「僕」の「幸せ」をうたった歌です。「僕が」という助詞「が」があらわしているように語り手はふいにいっしゅんにして「僕」の(「幸せ」をめぐる)事実にきづいた。助詞の「が」というのはとつぜんの気づきをあらわすのです。たとえば「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが暮らしておりました」という昔話もある意味で、おじいさんとおばあさんの「あるところの暮らし」のとつぜんの〈きづき〉なわけです。
ここが「僕は」という「は」の助詞だと「僕」の既知的説明になってしまいます(「おじいさんはしばかりに、おばあさんは洗濯にいきました」)。
「僕が」という助詞「が」によってそれまで自身にさえ説明できなかったじぶんじしんのことをいっしゅんにして〈きづき〉として提示した。
でもこれは短歌という定型にそった表現メディアなので、定型にそってその気づきが成型化されていくことになります。「僕」が「ずっと忘れていたこと」は短歌という記憶の表現メディアにのって、〈みんな〉の忘れないことになってゆく。
だから「僕」の「ずっと忘れていた」「幸せ」をめぐる話は短歌というメディアにのせたことで〈みんな〉の「ずっと忘れていた」「幸せ」をめぐる話にもなっていくかもしれない。
けれどもたった一音、助詞の「が」だけがその〈共同体的記憶〉の質感に抵抗していくとおもうんです。
この歌が〈みんな〉に想起されるたびに、この歌のなかで「僕」は、「僕は」ではなく、「僕が」として〈きづく〉わけです。既知ではなく、未知の「僕」として。
意味内容はみんなの記憶にシフトしてしまうけれど、助詞だけは奪いとられない。「僕」は「僕が」としてこの一回性を《きづき》つづける。
定型詩とは、助詞と共同体的記憶がせめぎあう闘技場(アリーナ)そのものなのではないか。
どちらがよりかなしくないか、で生きて来し指があなたの背中に触れる 牛隆佑
花《は》咲いている
といえば、「花は(ドウシテイルカトイエバ)咲いている」と題目に説明を加える文である。ところが、
花《が》咲いている
とは、現実に花を発見して、あるいは驚き、あるいは喜び、それを目前の事実として描写したものである。
ここでは「花」は、話題として提示され、一度そこで切れ、下の説明を待つものではない。「花が咲いていること」全体が一瞬にして認識されたのであり、それを分析的に表現しているものである。それゆえ、この文における「花」は、未知扱いをされている。
ハは題目を提示して、それを既知扱いにする。
それに対してガの根本的な特性は、ガの上にくる言葉とガとが一体となって、下にくる表現に対する条件づけをすることにある。条件づけをするとは、下にくる体言や動詞や文表現などに対して、ガを含む上の部分が新しい情報を加えるものだということである。
大野晋『日本語の文法を考える』
【助詞 対 記憶】
短歌は記憶と関わりが深い表現メディアだとおもうんですが、災事が起こると定型詩がとつぜん増えるとはよく指摘されることです。
それもある意味、とつぜん受け入れがたいことが起こって〈記憶〉を〈再編〉しようとする動きからきているんじゃないかとおもうんです。
定型っていうのは、じぶんのほしいがままにはできない、じぶんが記憶したいようには記憶できないメディアです。
ところがその〈ほしいがままにはできない性〉によってかりそめの〈共同体的記憶〉のような質感ができる。
だんだん〈わたし〉が語っているのか、〈定型〉が語っているのかわからなくなるのも、また、定型詩だとおもうんです。
だから、定型詩は記憶をとどめながらも、記録を攪拌していく。
そういう記憶と記録のあわいのようなところに定型詩がある。
記憶と記録のあわいに定型詩があるのは、個人と共同体のあわいにいるからなんだということもできる。
そのときにこの牛さんの歌は〈短歌〉という表現メディアをとおしたことでふしぎな質感をもつとおもうんです。
この歌は「僕」の「幸せ」をうたった歌です。「僕が」という助詞「が」があらわしているように語り手はふいにいっしゅんにして「僕」の(「幸せ」をめぐる)事実にきづいた。助詞の「が」というのはとつぜんの気づきをあらわすのです。たとえば「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが暮らしておりました」という昔話もある意味で、おじいさんとおばあさんの「あるところの暮らし」のとつぜんの〈きづき〉なわけです。
ここが「僕は」という「は」の助詞だと「僕」の既知的説明になってしまいます(「おじいさんはしばかりに、おばあさんは洗濯にいきました」)。
「僕が」という助詞「が」によってそれまで自身にさえ説明できなかったじぶんじしんのことをいっしゅんにして〈きづき〉として提示した。
でもこれは短歌という定型にそった表現メディアなので、定型にそってその気づきが成型化されていくことになります。「僕」が「ずっと忘れていたこと」は短歌という記憶の表現メディアにのって、〈みんな〉の忘れないことになってゆく。
だから「僕」の「ずっと忘れていた」「幸せ」をめぐる話は短歌というメディアにのせたことで〈みんな〉の「ずっと忘れていた」「幸せ」をめぐる話にもなっていくかもしれない。
けれどもたった一音、助詞の「が」だけがその〈共同体的記憶〉の質感に抵抗していくとおもうんです。
この歌が〈みんな〉に想起されるたびに、この歌のなかで「僕」は、「僕は」ではなく、「僕が」として〈きづく〉わけです。既知ではなく、未知の「僕」として。
意味内容はみんなの記憶にシフトしてしまうけれど、助詞だけは奪いとられない。「僕」は「僕が」としてこの一回性を《きづき》つづける。
定型詩とは、助詞と共同体的記憶がせめぎあう闘技場(アリーナ)そのものなのではないか。
どちらがよりかなしくないか、で生きて来し指があなたの背中に触れる 牛隆佑
花《は》咲いている
といえば、「花は(ドウシテイルカトイエバ)咲いている」と題目に説明を加える文である。ところが、
花《が》咲いている
とは、現実に花を発見して、あるいは驚き、あるいは喜び、それを目前の事実として描写したものである。
ここでは「花」は、話題として提示され、一度そこで切れ、下の説明を待つものではない。「花が咲いていること」全体が一瞬にして認識されたのであり、それを分析的に表現しているものである。それゆえ、この文における「花」は、未知扱いをされている。
ハは題目を提示して、それを既知扱いにする。
それに対してガの根本的な特性は、ガの上にくる言葉とガとが一体となって、下にくる表現に対する条件づけをすることにある。条件づけをするとは、下にくる体言や動詞や文表現などに対して、ガを含む上の部分が新しい情報を加えるものだということである。
大野晋『日本語の文法を考える』
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