【感想】短歌・俳句・川柳と〈好き〉スタディーズ-どんどん好きになるひとびと-
- 2015/08/12
- 12:30
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 穂村弘
止めてくれどんどん人が好きになる むさし
君が好き青や緑も好きになる 竹井紫乙
【すきなひとのすきなひとのはなし】
さいきん川柳と「好き」をめぐって考えさせていただく機会があって、ただそもそもが川柳には「好き」っていうことばが多いようなきがするんです。
俳句ではほとんど「好き」ということばはみられない。たとえば俳句で「好き」といえば神野紗希さんの、
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
なんじゃないかと思うんですが、ただなんどもなんどもわたしはこの句をみているうちにほんとうは語り手は「コンビニのおでん」が「好き」ではないんじゃないかともおもうようになったのです。
たとえば「星きれい」というのは決まり文句的な〈大きな物語〉なわけです。あんまり「きれい」についてなにも考えていなくても「星きれい」といえば〈大きな物語〉にのることができる。「コンビニのおでん」もかんがえてみると、じつは「おでん」そのもののすこし横をゆく〈虚構のおでん〉としての語りの配置のようにもみえる。
だからこの句の「好き」がおもしろいのは、その「好き」の言語的配置によって「好き」がゆらぐところなのではないかとおもうのです。
では、短歌の〈好き〉は、どうか。
こんな短歌をあげてみたいとおもうのです。
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 穂村弘
これはもちろん「雪だ(ユキ・ダ)」と発話されているわけなんですが、ここには潜在的に「好きだ(スキ・ダ)」も埋め込まれているとおもうのです。相手が体温計を加えながら「雪だ」と発話したときに潜在的に「好きだ」と発話もしている。それを語り手が「雪(好き)のことかよ」と相対化する。その〈好き〉の相対化のありようが穂村さんのこの短歌ではないかとおもうのです。だからこの短歌の〈好き〉の相対化はたぶん〈好き〉と〈死〉の相対化をめぐる穂村さんの「恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死」という歌ともつながっているとおもいます。
だからある意味で、穂村弘の短歌空間のなかでは〈愛〉や〈恋〉や〈死〉は成就しないのです。相対化されるので。
で、ちょっとみてみたように、俳句や短歌の〈好き〉というのはそのまま〈好き〉にならずにアイロニカルなわけです。好きがそのまま好きにならないで言辞によって好きが好きでない領域にまで踏み込んでいる。
ところが、ふしぎなことに、川柳のなかで「好き」と表出されたときに〈ほんとう〉に「好き」そのものになっているようにおもうのです。それが、ふしぎなんです。
なぜ、川柳だけがこんなにも素直に「好き」と発話できるのか。
止めてくれどんどん人が好きになる むさし
君が好き青や緑も好きになる 竹井紫乙
これら2句にある「好き」は俳句や短歌にみられるような「好き」の〈ありかた〉をめぐったものではなくて、「好き」の〈濃度〉に焦点化されているものだとおもうんです。
むさしさんの句の「止めてくれどんどん」という反措定はいかに「好き」が逆に濃度を加速度的に増しているかを語っているし、紫乙さんの句の「青や緑も」は「君が好き」になることで「好き」の領域が拡張され、世界がある意味で〈好き〉帝国化していくように、「好き」領域が拡大していきます。
ありかたなのではなく、濃度そのものを問いかける。それが川柳という文芸の形式でもあるようなのです。
だからあえてあらっぽくいうと、俳句や短歌は〈外〉から「好き」を使用し、川柳は〈内〉から「好き」を描いていく。
だから川柳をもちあげるわけではないのだけれど、あなたやあなた以外のだれかに「すごく好き」とそのまま表出したい場合は、現代川柳の形式をもちいるのがいちばんいいのではないかとおもったりもするのです。
すごく好き夜にまぎれて見つめてる 竹井紫乙
すきなひとのすきなひとのはなしをきいている そのすきなひとにもすきなひとがいる 柳本々々
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 穂村弘
止めてくれどんどん人が好きになる むさし
君が好き青や緑も好きになる 竹井紫乙
【すきなひとのすきなひとのはなし】
さいきん川柳と「好き」をめぐって考えさせていただく機会があって、ただそもそもが川柳には「好き」っていうことばが多いようなきがするんです。
俳句ではほとんど「好き」ということばはみられない。たとえば俳句で「好き」といえば神野紗希さんの、
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
なんじゃないかと思うんですが、ただなんどもなんどもわたしはこの句をみているうちにほんとうは語り手は「コンビニのおでん」が「好き」ではないんじゃないかともおもうようになったのです。
たとえば「星きれい」というのは決まり文句的な〈大きな物語〉なわけです。あんまり「きれい」についてなにも考えていなくても「星きれい」といえば〈大きな物語〉にのることができる。「コンビニのおでん」もかんがえてみると、じつは「おでん」そのもののすこし横をゆく〈虚構のおでん〉としての語りの配置のようにもみえる。
だからこの句の「好き」がおもしろいのは、その「好き」の言語的配置によって「好き」がゆらぐところなのではないかとおもうのです。
では、短歌の〈好き〉は、どうか。
こんな短歌をあげてみたいとおもうのです。
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 穂村弘
これはもちろん「雪だ(ユキ・ダ)」と発話されているわけなんですが、ここには潜在的に「好きだ(スキ・ダ)」も埋め込まれているとおもうのです。相手が体温計を加えながら「雪だ」と発話したときに潜在的に「好きだ」と発話もしている。それを語り手が「雪(好き)のことかよ」と相対化する。その〈好き〉の相対化のありようが穂村さんのこの短歌ではないかとおもうのです。だからこの短歌の〈好き〉の相対化はたぶん〈好き〉と〈死〉の相対化をめぐる穂村さんの「恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死」という歌ともつながっているとおもいます。
だからある意味で、穂村弘の短歌空間のなかでは〈愛〉や〈恋〉や〈死〉は成就しないのです。相対化されるので。
で、ちょっとみてみたように、俳句や短歌の〈好き〉というのはそのまま〈好き〉にならずにアイロニカルなわけです。好きがそのまま好きにならないで言辞によって好きが好きでない領域にまで踏み込んでいる。
ところが、ふしぎなことに、川柳のなかで「好き」と表出されたときに〈ほんとう〉に「好き」そのものになっているようにおもうのです。それが、ふしぎなんです。
なぜ、川柳だけがこんなにも素直に「好き」と発話できるのか。
止めてくれどんどん人が好きになる むさし
君が好き青や緑も好きになる 竹井紫乙
これら2句にある「好き」は俳句や短歌にみられるような「好き」の〈ありかた〉をめぐったものではなくて、「好き」の〈濃度〉に焦点化されているものだとおもうんです。
むさしさんの句の「止めてくれどんどん」という反措定はいかに「好き」が逆に濃度を加速度的に増しているかを語っているし、紫乙さんの句の「青や緑も」は「君が好き」になることで「好き」の領域が拡張され、世界がある意味で〈好き〉帝国化していくように、「好き」領域が拡大していきます。
ありかたなのではなく、濃度そのものを問いかける。それが川柳という文芸の形式でもあるようなのです。
だからあえてあらっぽくいうと、俳句や短歌は〈外〉から「好き」を使用し、川柳は〈内〉から「好き」を描いていく。
だから川柳をもちあげるわけではないのだけれど、あなたやあなた以外のだれかに「すごく好き」とそのまま表出したい場合は、現代川柳の形式をもちいるのがいちばんいいのではないかとおもったりもするのです。
すごく好き夜にまぎれて見つめてる 竹井紫乙
すきなひとのすきなひとのはなしをきいている そのすきなひとにもすきなひとがいる 柳本々々
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