おつぱいをめぐるあとがき。
- 2015/08/12
- 13:30
『川柳カード』9号(2015年7月)の「【特集】若手俳人は現代川柳をどう見ているか」において、松本てふこさんの「わからないけど好き」という論考のなかでてふこさんから取り上げていただきました。てふこさん、ありがとうございました!
おっぱい×n乗(セカイ系) 柳本々々
という句を評していただいたんですが、てふこさんも書かれているように
おつぱいを三百並べ卒業式 松本てふこ
とてふこさんには有名な〈おつぱい〉の句があります。
で、実はわたしは自分の句を提出したときに「おっぱい」ではなく「おつぱい」と書いて投句し、それが手書きだったために〈誤配〉されて印刷時には「おっぱい」となっていて、そういう〈誤配〉込みで表現だともおもっているところがあるのでそれでいいと思ったのですが、最初投句したときに「おつぱい」と書いたときは実はてふこさんのこの句の語感のおもしろさが念頭にありました(そもそもがこのてふこさんの句がとても好きだったので)。
もちろん、てふこさんの場合は、歴史的仮名遣いであって、意図的に「おつぱい」となっているわけではないのですが、ただ「おっぱい」が仮名遣いをとおして「おつぱい」になっていることで通常の「おっぱい性」が払拭され、フィクショナルな《おつぱい》というものになっているのがてふこさんの句ではないかとおもうんです。
てふこさんの句は卒業式で整列する学生を〈おっぱい〉に置換したものですが、「三百のおっぱい」が並んでいることでデヴィッド・リンチのようなシュールな虚構めいた風景が生まれているとおもうんですね。そしてそれはシュールなんだけれども決して中性的な風景ではなくて、〈だれ〉がそれをみて・〈だれ〉がそれを語るかによってジェンダーバイアスも変わってくるというそういうことも描いているんじゃないかとおもうんです。
このてふこさんの句、女性が女性を語っているのか、女性が男性を語っているのか、男性が女性を語っているのか、男性が男性を語っているか、で質感が変わってきますよね。
乳房を語るときには、かならず乳房の語りの政治学的なジェンダーバイアスとかかわらざるをえないというのがある意味このてふこさんの句なのではないかとおもうのです。
「川柳を読んでいると不思議な居心地の悪さを感じる」とてふこさんは書かれているんですが、語るときに派生するそういう〈居心地の悪さ〉っていうのをわたしも大事にしていきたいなとも思います。
むしろその〈ひっかかり〉のような「不健全」としてのノイズの部分に、じぶんがふだんは見過ごしてわかったような気でいることを相対化してくれるなにかがあるのではないかとも、おもうのです。たとえばわたしが「健全」におっぱいを語るときのような「不健全」ななにかが。
不健全図書を世に出しあたたかし 松本てふこ
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