【感想】短歌における〈きみ〉と〈おまえ〉をめぐって-岡野大嗣・安福望をめぐる二人称トークから-
- 2015/08/13
- 19:35
一年にふたり以上は渡れない橋で僕らはまたすれ違う 岡野大嗣
【おまえのはなし】
岡野大嗣さんと安福望さんと話をしていたときに、岡野さんの短歌には「きみ」という二人称に呼びかけた短歌が少ないよね、って話になったんです。
で、これは岡野大嗣さんの短歌がどちらかというと〈わたし〉と〈あなた〉との二人称的枠組みではなく、〈わたし〉と〈わたし・たち〉というわたしとシステムをめぐる枠組みの関わり合いが深いということなのではないかとわたしは思ったんですが、これは実は安福望さんの絵にも言えることなのではないかと思っているんです。
たとえば安福望さんの絵は人物が極端に少なく、また人物どうしが出てきても距離感をとっておりべったりとしていないのが特徴的ですが、これも〈わたし〉と〈あなた〉ではなく、〈わたし〉と〈わたし〉をとりまく全体の関わりを描いているといえるんではないかとおもうんです。
もしくはこういってもいい、安福さんの絵に動物が多いのは、それは「きみ」と呼びかける〈二人称的枠組み〉ではない世界を志向してるからだと。なぜなら動物にひとは「きみ」と呼びかけないから。
「きみ」ってうのはとても便利なんだけれども、実は非常に磁力が強いことばだともおもうんですよね。「きみ」と使うことで実はほんとうに「きみ」を名指しできているかどうかわからないリスキーなマジックワードが「きみ」なんじゃないかと。
けれども、それでも〈きみ〉を描きたい場合、どうすればいいのか。
そんなとき思い出したのが穂村弘さんの短歌です。穂村弘さんの短歌はどちらかというと〈きみ〉というより〈おまえ〉の語感が強いはずです。
ティーバッグのなきがら雪に投げ捨てて何も考えずおまえの犬になる 穂村弘
そうだ、「おまえ」があったじゃないかとおもったんです。もっといえばこの短歌における「おまえ」の語感は穂村弘さんが実は形成しているところが大きいんじゃないかと。
たとえば上の歌なんですが、「きみの犬になる」のほうが音律上は心地よく響きます。ところが語り手は《わざわざ》「おまえ」を選んでいる。定型をはみだしながらも。
で、「きみの犬」ではここはだめだったんですよね、語り手としては。
「きみ」と「おまえ」の違いについて考えてみれば、「きみ」はていねいですがそのていねいさによって対象を完全に客観化する冷たさがあります。その一方で「おまえ」は〈御前〉とも表記するように、乱暴なくちぶりではあるけれど対象の〈前〉に密着するような質感を出す。呼びかける、というより、呼びなぐる、ような質感を出す。つまり、「おまえ」と呼びかけたとき、呼びかけられた対象だけでなく、呼びかけているじぶんじしんもその呼びかけた対象に巻き込まれていくのが「おまえ」です。
「おまえの犬になる」とは実は力点は「犬」ではなく、「おまえ」と呼びかけたときに「おまえ」との巻き込まれてゆく〈犬的関係〉が成立しているところにあるようにもおもう。
そしてこうした「おまえ」の〈半/反二人称的関係〉を短歌のなかでつむいでいったのが穂村弘だったのではないかとおもうのです。
こんど、親しいあいてに呼びかけてみてください。「おまえ」と。そうすると、なにかが、わかるはずです。突然、殴られるかもしれない。まきこまれるかもしれない。まきこまれると、わかる。ききながせない〈なにか〉が。
なんにでも醤油をかける恋人の「おまえだけだ」を聞きながす夏 田中ましろ
【おまえのはなし】
岡野大嗣さんと安福望さんと話をしていたときに、岡野さんの短歌には「きみ」という二人称に呼びかけた短歌が少ないよね、って話になったんです。
で、これは岡野大嗣さんの短歌がどちらかというと〈わたし〉と〈あなた〉との二人称的枠組みではなく、〈わたし〉と〈わたし・たち〉というわたしとシステムをめぐる枠組みの関わり合いが深いということなのではないかとわたしは思ったんですが、これは実は安福望さんの絵にも言えることなのではないかと思っているんです。
たとえば安福望さんの絵は人物が極端に少なく、また人物どうしが出てきても距離感をとっておりべったりとしていないのが特徴的ですが、これも〈わたし〉と〈あなた〉ではなく、〈わたし〉と〈わたし〉をとりまく全体の関わりを描いているといえるんではないかとおもうんです。
もしくはこういってもいい、安福さんの絵に動物が多いのは、それは「きみ」と呼びかける〈二人称的枠組み〉ではない世界を志向してるからだと。なぜなら動物にひとは「きみ」と呼びかけないから。
「きみ」ってうのはとても便利なんだけれども、実は非常に磁力が強いことばだともおもうんですよね。「きみ」と使うことで実はほんとうに「きみ」を名指しできているかどうかわからないリスキーなマジックワードが「きみ」なんじゃないかと。
けれども、それでも〈きみ〉を描きたい場合、どうすればいいのか。
そんなとき思い出したのが穂村弘さんの短歌です。穂村弘さんの短歌はどちらかというと〈きみ〉というより〈おまえ〉の語感が強いはずです。
ティーバッグのなきがら雪に投げ捨てて何も考えずおまえの犬になる 穂村弘
そうだ、「おまえ」があったじゃないかとおもったんです。もっといえばこの短歌における「おまえ」の語感は穂村弘さんが実は形成しているところが大きいんじゃないかと。
たとえば上の歌なんですが、「きみの犬になる」のほうが音律上は心地よく響きます。ところが語り手は《わざわざ》「おまえ」を選んでいる。定型をはみだしながらも。
で、「きみの犬」ではここはだめだったんですよね、語り手としては。
「きみ」と「おまえ」の違いについて考えてみれば、「きみ」はていねいですがそのていねいさによって対象を完全に客観化する冷たさがあります。その一方で「おまえ」は〈御前〉とも表記するように、乱暴なくちぶりではあるけれど対象の〈前〉に密着するような質感を出す。呼びかける、というより、呼びなぐる、ような質感を出す。つまり、「おまえ」と呼びかけたとき、呼びかけられた対象だけでなく、呼びかけているじぶんじしんもその呼びかけた対象に巻き込まれていくのが「おまえ」です。
「おまえの犬になる」とは実は力点は「犬」ではなく、「おまえ」と呼びかけたときに「おまえ」との巻き込まれてゆく〈犬的関係〉が成立しているところにあるようにもおもう。
そしてこうした「おまえ」の〈半/反二人称的関係〉を短歌のなかでつむいでいったのが穂村弘だったのではないかとおもうのです。
こんど、親しいあいてに呼びかけてみてください。「おまえ」と。そうすると、なにかが、わかるはずです。突然、殴られるかもしれない。まきこまれるかもしれない。まきこまれると、わかる。ききながせない〈なにか〉が。
なんにでも醤油をかける恋人の「おまえだけだ」を聞きながす夏 田中ましろ
- 関連記事
-
-
【感想】男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす 俵万智 2014/07/18
-
【感想】たぶんゆめのレプリカだから水滴のいっぱいついた刺草を抱く 加藤治郎 2014/08/11
-
【感想】永井祐さんとガイア感覚-環境の中でたのしく暮らす- 2016/03/22
-
【感想】幸せに僕がなってもいいのですずっと忘れていたことですが 牛隆佑 2015/08/12
-
【感想】心音のリズムも熱も知っていて今なにをしているか知らない 千原こはぎ 2016/01/13
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想