【感想】ふきのとうロボットに生まれなかった 福田若之
- 2015/08/14
- 18:14
ふきのとうロボットに生まれなかった 福田若之
【積極的無力としての語り】
この福田さんの句にたいして松本てふこさんが「私ならきっと「生まれたかった」にしたなあ」と述べておられるんですが(「 【俳誌を読む】『東大俳句』に関わった皆さんへ」)、「生まれなかった」と「生まれたかった」のふたつをてふこさんが関連づけながら想起したようにこのふたつはひじょうに似通っている場所にあることばだとおもうんですよね。そこをかんがえさせる句なんじゃないかと。
にかよってはいるけれど決定的なちがうなにかが〈ここ〉にはある。
たとえばフランケンシュタインのモンスターが「にんげんに生まれたかった」と「にんげんに生まれなかった」と言うとき、そこにどういった差異がうまれるのか。
意味内容としては、どちらも《にんげんとして生まれたい》だとおもうんですよ。
ただ語る言説として違いがしょうじている。おなじことをめぐっていても語り方がちがうわけです。志向性が。
「生まれたかった」っていう表現は、《その可能性》しか念頭に、ない。その可能性にひたすら走る主体です。
でも「生まれなかった」は《その可能性》も示唆しつつも、じぶんの、〈いまこのわたし〉という存在をもひきうけようとしている主体のようにもおもうんです。ひきうける、というとそれだけで語りのちからが派生してしまうんで、ただ〈いまこのわたし〉であることから離れずにかすかに〈他の可能性〉を示唆した主体。積極的に無力であろうする主体。もし「ロボットに生まれ」ていたとしてもこんどは「ふきのとうに生まれなかった」というかもしれない主体。
ドゥルーズも小林秀雄も〈いまこのわたし〉が〈いまこのわたし〉であるという事態におどろいています。
存在は、すべての出来事のための端的な出来事として、あらゆる形態のための極端な形態として到来する。
ドゥルーズ『意味の論理学 下』
人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。
小林秀雄『様々なる意匠』
ただ〈おどろき〉もせず、〈極端〉にもならず、すべての出来事を志向することもせず、しかしほのかにすべての出来事とつながってゆくありかた。
それが「生まれなかった」だとおもうんです。
だからこれはメルヴィルが『バートルビー』というぶきみでふしぎな小説によってさししめしたベケット的な〈後退のなかの前進〉にちかいんじゃないかとおもうんです。
後退しながら前進すること。後退のなかで前進を繰り返しつづけること。どこにもゆかないことによって、〈どこにもゆける〉あなたじしんの存在をきわめて無力にさししめすこと。
バートルビーは肯定もしないし、否定もしない。拒否しないが、受け入れることもせず、前進し、この前進のなかで後退する。
ジャヴォルスキ『メルヴィル、砂漠か帝国か』
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