ゆらめきとあとがき。
- 2015/08/14
- 19:24
毎日新聞8月13日(木)の夕刊の井上卓弥さんの記事「戦争 新世代の表現 下 詩歌」で短歌を取り上げていただきました。ありがとうございました。
しゃぼんだまひいふう飛ばしていたようにこの風船も飛ばされてゆく 山崎聡子
という山崎さんの短歌から始まり、
戦争が終わり今年で七十年いつ始まったのか知っていますか 大木はち
ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね 伊舎堂仁
新聞がきょうもきてないこの朝に戦車のような羊の群れが 柳本々々
と大木さん、伊舎堂さん、わたしの短歌が紹介され、加藤治郎さんの「スレスレの時代を生きる危機感が自己主張となり、短歌という詩型の特性を伴って文学へと昇華している」と評がつけられています。
この〈戦争〉をめぐる三首をみてわたしが思うのは、それぞれの個をめぐる〈戦争〉との距離感です。
たとえば大木さんなら「いつ始まったのか知っていますか」という時間の〈距離感〉を問いかける下の句が、伊舎堂さんなら「豆乳鍋」というあからさまな〈創作料理〉としてのナショナリティの喪失した食べ物が〈距離感〉になっています。
大木さんの〈始まり〉は始まりの主体があえて書かれないことによって〈戦争〉と〈記憶〉の根源的な〈始まり〉を描いているし、伊舎堂さんの「豆乳鍋」という語彙の選択はわたしたちが「徴兵」されてナショナリティを背負うことになったとしても、そもそもがわたしたちの日常文化がナショナリティが脱色されていることを示唆しています。だから「意味ないよ」と〈意味〉がもてない状況におかれる。
こうした〈距離感〉はべつのことばでいえば、〈ゆらめき〉ともいえるのではないかとおもいます。
一義的に意味がすくいとれない領域、それが〈ゆらめき〉です。
この記事のさいごをしめる山崎さんのことばがとても印象的でした。わたしも文学や表現はつねに〈ゆらめき〉というあわいの領域にあるものだとおもいます。
個人の感覚が集まり知らず知らずのうちに“時代の空気”になるのだと思います。戦争や政治についても単純な賛否の表現ではなく、揺らめいている感覚を大切にしながら、消えかけた記憶を短歌の中に残していきたい。
山崎聡子
キャロル・グラッグが述べているように、戦争が終わって70年近くが経過しているのに、「戦後」という時代区分が活きているのは、日本だけである。どうして、日本だけ、《いつまでも「戦後」を終わらせることがでいないのか》。何度も「終わり」が宣言されたのに。戦後が終わらないのはどうしてなのか。
結論を言ってしまえば、日本人が「敗戦」の事実を否認してきたからである。精神分析学では、主体が、一方で、あることを分かっているのに、他方で、それを受け入れず、まるで正反対の認識をもっているかのようにふるまうことを「否認」と呼ぶ。日本人は、敗戦を否認した。たとえば、日本人(と韓国人)だけは、戦争を「八月十五日」と結びつけて記憶している。この日は、国際的には何の意味もない日である。国際法にかなった形での戦争の終わりの日を言うなら、八月十四日(ポツダム宣言受諾)か九月二日(降伏文書調印)である。にもかかわらず、日本人は八月十五日のみを記憶している。玉音放送があったこの日であれば、「敗戦」ではなく「終戦」として記憶することができるからである。敗戦を否認したために、ある意味で、《日本人にとって真の戦後は始まってさえいない》。始まっていない以上、終わるはずがない。
大澤真幸『ナショナリズムとグローバリズム』
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