〈と〉とあとがき。
- 2015/08/14
- 19:48
すみませんすみませんと一面の花 小池正博
【〈と〉から始まる朝がある】
小池正博さんから『週刊川柳時評』の「小さな物語をつなぐ〈と〉」において、先日のとととと展のととととライブで行われた岡野大嗣さん・安福望さん・わたしのクロストークの模様を書いていただきました。ありがとうございました!
このクロストークは岡野さん・安福さん・牛隆佑さん・わたしの四人で準備をすすめつくりあげていったものだったのですが、さいごにこれだけはいおうと決めていたことがあってそれをうまくいえたかがどうかはわからないのですが、あらかじめいおうと思っていたのは以下の記述でした。
A(とB)、B(とC)、X(とX)、『と』っていうのは消費できないような、ちいさな無数の『と』をつくりだす動きとしてある。
物語として一括されそうなときに、小さなわたしの物語としてたえず『と』を打ち出して、大きな物語に対抗していく力。
そもそも短歌や絵というのは、定型や一枚の紙という枠組みのもとで、なんどもなんどもコンセプトを変えながら、…と…と…と…と、と何首もなんまいも表現していくものなので、世界はこうでなければならないという大きな物語に対抗する〈このわたしの小さな物語〉という大事な役割があるようにおもいます。
だからその意味においては、短歌も絵も、世界にはまだこんな伸びしろや奥行きや救いがあるという「世界とX」という〈と〉の表現力なのではないかとおもうのです。
これは暗記しなかったので骨としてたぶんその場でお話したのですが小池さんがこのことを「大きな物語ではなく、小さな物語を〈と〉でつないでいって、小さな物語をたくさん作ってゆく」と書いてくださっていました。
トーク前に岡野さんと安福さんと話をしていたときに少し放したことなんですが、かんがえてみると定型と絵を描くための一枚の紙だけは進化しない。たとえば、定型がハイパー定型になって100音が可能になったりはしないし、いまだに古代の壁絵のように一枚の紙にむきあってひとは絵を描いている。もちろんそれらがデジタルメディアと結びついて複合化はされていくのだけれども、それでも定型を終えてまた一首、一枚の紙を描き終えて次の絵へっていうのは基本的に変わらないわけです。
そういう〈進化しない凄さ〉のようなものが定型と絵にはあるんじゃないかって思いました。
進化しないからこそ、つぎの「と」へ移行していくわけです。そこにとどまらずに。アナログは終わりがくるので。終わりがくるから、また小さな物語をつくっていく。
牛さんが、岡野さんの短歌は「小さなできごとや感情を「作者(私)」の物語に回収せずに、小さなできごとのまま残そうとしている」のではないか、とおっしゃっていたんですが、わたしもそうした「小さなできごとや感情」をひとつひとつアナログの器におさめていくことが岡野さんと安福さんの連なる〈と〉の物語として提示されているのではないかと、おもうのです。こうしなければならない・こうあらねばならない、という〈大きな物語〉に強制・強要されてしまうようなこんな時代だからこそ。多くのパンやハムやレタスの物語として。
ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた 岡野大嗣
とととと展で伊舎堂仁さんからいただいたTシャツ。テキストが逆に打たれてるのが、かっこいい。
【〈と〉から始まる朝がある】
小池正博さんから『週刊川柳時評』の「小さな物語をつなぐ〈と〉」において、先日のとととと展のととととライブで行われた岡野大嗣さん・安福望さん・わたしのクロストークの模様を書いていただきました。ありがとうございました!
このクロストークは岡野さん・安福さん・牛隆佑さん・わたしの四人で準備をすすめつくりあげていったものだったのですが、さいごにこれだけはいおうと決めていたことがあってそれをうまくいえたかがどうかはわからないのですが、あらかじめいおうと思っていたのは以下の記述でした。
A(とB)、B(とC)、X(とX)、『と』っていうのは消費できないような、ちいさな無数の『と』をつくりだす動きとしてある。
物語として一括されそうなときに、小さなわたしの物語としてたえず『と』を打ち出して、大きな物語に対抗していく力。
そもそも短歌や絵というのは、定型や一枚の紙という枠組みのもとで、なんどもなんどもコンセプトを変えながら、…と…と…と…と、と何首もなんまいも表現していくものなので、世界はこうでなければならないという大きな物語に対抗する〈このわたしの小さな物語〉という大事な役割があるようにおもいます。
だからその意味においては、短歌も絵も、世界にはまだこんな伸びしろや奥行きや救いがあるという「世界とX」という〈と〉の表現力なのではないかとおもうのです。
これは暗記しなかったので骨としてたぶんその場でお話したのですが小池さんがこのことを「大きな物語ではなく、小さな物語を〈と〉でつないでいって、小さな物語をたくさん作ってゆく」と書いてくださっていました。
トーク前に岡野さんと安福さんと話をしていたときに少し放したことなんですが、かんがえてみると定型と絵を描くための一枚の紙だけは進化しない。たとえば、定型がハイパー定型になって100音が可能になったりはしないし、いまだに古代の壁絵のように一枚の紙にむきあってひとは絵を描いている。もちろんそれらがデジタルメディアと結びついて複合化はされていくのだけれども、それでも定型を終えてまた一首、一枚の紙を描き終えて次の絵へっていうのは基本的に変わらないわけです。
そういう〈進化しない凄さ〉のようなものが定型と絵にはあるんじゃないかって思いました。
進化しないからこそ、つぎの「と」へ移行していくわけです。そこにとどまらずに。アナログは終わりがくるので。終わりがくるから、また小さな物語をつくっていく。
牛さんが、岡野さんの短歌は「小さなできごとや感情を「作者(私)」の物語に回収せずに、小さなできごとのまま残そうとしている」のではないか、とおっしゃっていたんですが、わたしもそうした「小さなできごとや感情」をひとつひとつアナログの器におさめていくことが岡野さんと安福さんの連なる〈と〉の物語として提示されているのではないかと、おもうのです。こうしなければならない・こうあらねばならない、という〈大きな物語〉に強制・強要されてしまうようなこんな時代だからこそ。多くのパンやハムやレタスの物語として。
ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた 岡野大嗣
とととと展で伊舎堂仁さんからいただいたTシャツ。テキストが逆に打たれてるのが、かっこいい。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のあとがき