【感想】房総へ花摘みにゆきそののちにつきとばさるるやうに別れき 大口玲子
- 2015/08/17
- 01:00
房総へ花摘みにゆきそののちにつきとばさるるやうに別れき 大口玲子
【短歌と暴力】
〈つきとばされる〉事態っていうのがまずほとんど短歌・俳句・川柳にはみられないんじゃないかというおどろきがあるんです。
なんでだろう、ってちょっと考えてみたんですが、まず〈つきとばされる〉のも〈つきとばす〉のも基本的には〈暴力〉なんですよね。大口さんの短歌では、「やうに」と直喩でやわらげられてはいるものの、もし語り手が〈つきとばす〉を使おうとおもったら、まず〈暴力〉と向き合うことを覚悟しなければならない。
そして〈暴力〉と向き合うということはどういうことかといえば、語りのなかに〈悪〉を組み入れるということだともおもうんです。
中島みゆきさんの「ファイト」っていう歌に意味もなく駅の階段でひとをつきとばす女のひとが出てくるんですよ。で、つきとばしたあとに、うすわらいをしている。これは純粋な〈悪〉だとおもうんですよ。純粋な〈悪〉っていうのはなにかというと、〈善〉と比較できない、二項対立にならない〈悪〉です。いいとかわるいとかの向こう側にいくことだとおもうんです。ひとをつきとばしてもいいとかわるいはとくにない。ただ、〈おかしい〉。それが〈悪〉です(だからこの歌はそういう善悪の彼岸でも「ファイト」という無価値のことばの強さによって戦うことを誓う歌だとおもうんです)。
ただですね、この大口さんの歌の語り手は〈したたか〉だともおもうんです。
つきとばされるように別れる前に「花摘みにゆき」と語ってますよね。この歌には、〈花を摘んだ〉→〈つきとばされるように別れた〉って構造があるんです。つまり、語り手はつきとばした相手のその〈つきとばし〉の強度を高めるために構造化をしているわけです。これからつきとばされるために、ハードルをできるだけ低くして、お花畑をつくっておいてから、断崖絶壁へいっきに昇華する。
つきとばされる、という行為は、予測不可能な行為なんです。予測不可能だからこそ、つきとばされたわけです。ところが語り手はその予測不可能な〈つきとばされ〉を予測可能な構造におとしこんで、〈予測不可能なつきとばされ〉の強度をあげた。つまり、読み手を語り手はある意味で、〈つきとばし〉ているわけです。
わたしはこの大口さんの歌をみながらおもったんですが、〈暴力〉ってなにかというと、構造化された予見不可能性なんじゃないかとおもうんです。たとえば、資産号を渡ると事故にあうかもしれないとはどこかでおもってる。でもどこかでおもってもないわけです。まさか、と。その予見不可能性をつきやぶってじぶんがつきとばされたときにそれは〈暴力〉になるんじゃないか。そういう〈暴力〉を描いているんじゃないかともおもうんです。
だから暴力はいつだって〈とうとつ〉なんですよ。とうとつにめがねを外すひとも、いる。
唐突に眼鏡はづして我を見る君は樹木の視座を持つ人 大口玲子
【短歌と暴力】
〈つきとばされる〉事態っていうのがまずほとんど短歌・俳句・川柳にはみられないんじゃないかというおどろきがあるんです。
なんでだろう、ってちょっと考えてみたんですが、まず〈つきとばされる〉のも〈つきとばす〉のも基本的には〈暴力〉なんですよね。大口さんの短歌では、「やうに」と直喩でやわらげられてはいるものの、もし語り手が〈つきとばす〉を使おうとおもったら、まず〈暴力〉と向き合うことを覚悟しなければならない。
そして〈暴力〉と向き合うということはどういうことかといえば、語りのなかに〈悪〉を組み入れるということだともおもうんです。
中島みゆきさんの「ファイト」っていう歌に意味もなく駅の階段でひとをつきとばす女のひとが出てくるんですよ。で、つきとばしたあとに、うすわらいをしている。これは純粋な〈悪〉だとおもうんですよ。純粋な〈悪〉っていうのはなにかというと、〈善〉と比較できない、二項対立にならない〈悪〉です。いいとかわるいとかの向こう側にいくことだとおもうんです。ひとをつきとばしてもいいとかわるいはとくにない。ただ、〈おかしい〉。それが〈悪〉です(だからこの歌はそういう善悪の彼岸でも「ファイト」という無価値のことばの強さによって戦うことを誓う歌だとおもうんです)。
ただですね、この大口さんの歌の語り手は〈したたか〉だともおもうんです。
つきとばされるように別れる前に「花摘みにゆき」と語ってますよね。この歌には、〈花を摘んだ〉→〈つきとばされるように別れた〉って構造があるんです。つまり、語り手はつきとばした相手のその〈つきとばし〉の強度を高めるために構造化をしているわけです。これからつきとばされるために、ハードルをできるだけ低くして、お花畑をつくっておいてから、断崖絶壁へいっきに昇華する。
つきとばされる、という行為は、予測不可能な行為なんです。予測不可能だからこそ、つきとばされたわけです。ところが語り手はその予測不可能な〈つきとばされ〉を予測可能な構造におとしこんで、〈予測不可能なつきとばされ〉の強度をあげた。つまり、読み手を語り手はある意味で、〈つきとばし〉ているわけです。
わたしはこの大口さんの歌をみながらおもったんですが、〈暴力〉ってなにかというと、構造化された予見不可能性なんじゃないかとおもうんです。たとえば、資産号を渡ると事故にあうかもしれないとはどこかでおもってる。でもどこかでおもってもないわけです。まさか、と。その予見不可能性をつきやぶってじぶんがつきとばされたときにそれは〈暴力〉になるんじゃないか。そういう〈暴力〉を描いているんじゃないかともおもうんです。
だから暴力はいつだって〈とうとつ〉なんですよ。とうとつにめがねを外すひとも、いる。
唐突に眼鏡はづして我を見る君は樹木の視座を持つ人 大口玲子
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