【感想】そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています 東直子
- 2014/06/14
- 22:17
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています 東直子
【形容詞 対 動詞の決闘】
以前、東直子さんの歌集の感想文を書いてみたときに、読み手が文脈を形成するように仕掛けられているのが東さんの短歌のひとつの特徴ではないかと書いてみたのですが(参照:「【感想】『セレクション歌人26 東直子集』-読み手を歌い手に変える鍵-」)、この短歌も読み手がどのような文脈を持ちこむかによって、どこに「。」としての休止が入るかが変わってくるようにおもうんです。
たとえば主に次のふたつのようにこの短歌を句分けすることができるのではないかとおもいます。
① そうですか、きれいでしたか。わたくしは小鳥を売ってくらしています。
② そうですか、きれいでしたか、わたくしは。小鳥を売ってくらしています。
①だと、「きれい」なのは「わたし」ではなくて、「わたし」以外に話題にのぼった人物・物事であり、それをうけての、「わたくしは小鳥を売ってくらしています」になります。おおまかに図式化すると「きれい」対「売る」です。
②の場合、「わたくし」の過去が「きれい」だったことになるので、「わたくしの過去のきれい」対「わたくしの現在の小鳥売り」になります。
どちらも共通しているのは、図式として「きれい(形容詞)」対「売る(動詞)」になっていることです。
あえてここでさらに深読みするとこれは「形容詞=イメージ」対「動詞=現実」の対立になっているんじゃないかとおもうんですね。
「きれい」というのはあくまでイメージです。わたしがイメージしたものかもしれないし、他者によってもたらされたイメージかもしれない。しかしあくまでそれはイメージであり、それ以上のものではありません。
「売る」は動詞、しかも他動詞です。この〈他〉に象徴されているように他動詞の特徴は他者に介入し働きかけるところにあります。他者に働きかけるということは、それは拒絶されることもあるわけです。売れ〈ない〉ときもあるということになります。つまり、動詞には、形容詞としてのイメージ=想像界にはないような、現実界が介入してくることがあります。
これはそういった、「他者のいない想像界としてのユートピア」 対 「他者の前に立った現実界」という図式が仕込まれたうたではないかとおもうのです。
ただここで①②と分別してみた意味をかんがえてみます。
この他者が読み手にとってどこにいるかで、このうたの句切りが変わってくるようにおもうんです。
読み手にとっての他者が、他者のなかに、二人称や三人称のなかに他者性としてあれば、それは①のような句切りになるとおもいます。他者は、むこうがわに、彼岸にいるのです。
しかしもし読み手が、じぶんのなかに、じぶんの過去に他者性を感じていた場合、トラウマ的なものでも、回避性が強い過去でもいいのですが、そういった自分の時間軸のなかで他者性を感じていた場合は、②のような句切りになるのではないかとおもうのです。
そういった意味で、東さんの短歌は、短歌のなかだけで完結しているのではなく、読み手もまた、読み手自身のそれまでのすべてを持ち合わせて関わらなければいけないんではないかとおもうんです。
しかし、定型の句切りとは、もしかすると、読み手がたどったそれまでの〈歴史〉によってうがたれるものではないかとおもったりもするのです。
読み手が、どのような道を・どのような速度で・どのような風をかんじながら・どのような気息であるいてきたかが、ときに、定型の気息をも決めているようにおもうのです。
夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした 東直子
【形容詞 対 動詞の決闘】
以前、東直子さんの歌集の感想文を書いてみたときに、読み手が文脈を形成するように仕掛けられているのが東さんの短歌のひとつの特徴ではないかと書いてみたのですが(参照:「【感想】『セレクション歌人26 東直子集』-読み手を歌い手に変える鍵-」)、この短歌も読み手がどのような文脈を持ちこむかによって、どこに「。」としての休止が入るかが変わってくるようにおもうんです。
たとえば主に次のふたつのようにこの短歌を句分けすることができるのではないかとおもいます。
① そうですか、きれいでしたか。わたくしは小鳥を売ってくらしています。
② そうですか、きれいでしたか、わたくしは。小鳥を売ってくらしています。
①だと、「きれい」なのは「わたし」ではなくて、「わたし」以外に話題にのぼった人物・物事であり、それをうけての、「わたくしは小鳥を売ってくらしています」になります。おおまかに図式化すると「きれい」対「売る」です。
②の場合、「わたくし」の過去が「きれい」だったことになるので、「わたくしの過去のきれい」対「わたくしの現在の小鳥売り」になります。
どちらも共通しているのは、図式として「きれい(形容詞)」対「売る(動詞)」になっていることです。
あえてここでさらに深読みするとこれは「形容詞=イメージ」対「動詞=現実」の対立になっているんじゃないかとおもうんですね。
「きれい」というのはあくまでイメージです。わたしがイメージしたものかもしれないし、他者によってもたらされたイメージかもしれない。しかしあくまでそれはイメージであり、それ以上のものではありません。
「売る」は動詞、しかも他動詞です。この〈他〉に象徴されているように他動詞の特徴は他者に介入し働きかけるところにあります。他者に働きかけるということは、それは拒絶されることもあるわけです。売れ〈ない〉ときもあるということになります。つまり、動詞には、形容詞としてのイメージ=想像界にはないような、現実界が介入してくることがあります。
これはそういった、「他者のいない想像界としてのユートピア」 対 「他者の前に立った現実界」という図式が仕込まれたうたではないかとおもうのです。
ただここで①②と分別してみた意味をかんがえてみます。
この他者が読み手にとってどこにいるかで、このうたの句切りが変わってくるようにおもうんです。
読み手にとっての他者が、他者のなかに、二人称や三人称のなかに他者性としてあれば、それは①のような句切りになるとおもいます。他者は、むこうがわに、彼岸にいるのです。
しかしもし読み手が、じぶんのなかに、じぶんの過去に他者性を感じていた場合、トラウマ的なものでも、回避性が強い過去でもいいのですが、そういった自分の時間軸のなかで他者性を感じていた場合は、②のような句切りになるのではないかとおもうのです。
そういった意味で、東さんの短歌は、短歌のなかだけで完結しているのではなく、読み手もまた、読み手自身のそれまでのすべてを持ち合わせて関わらなければいけないんではないかとおもうんです。
しかし、定型の句切りとは、もしかすると、読み手がたどったそれまでの〈歴史〉によってうがたれるものではないかとおもったりもするのです。
読み手が、どのような道を・どのような速度で・どのような風をかんじながら・どのような気息であるいてきたかが、ときに、定型の気息をも決めているようにおもうのです。
夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした 東直子
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