【感想】梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど 外山一機
- 2015/08/19
- 01:03
わたしがはげしく漠然とした
眼にみえぬ誰かれの嫉妬から
凝然とした草ぐさの視線のさきに
ぶんぶんと唸りを上げるしあわせな蜜蜂となり
そのくせ真暗闇で
家があってもなく
道があってもそれをだれがいうのか
うたうのかわからなくなっておちてゆく
光る泥に掻き起こされた
冬の耐えられないさむさのように
江代充「草の上」
梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど 外山一機
【バートルビーは電気羊の夢を見ない。見てもいいけど】
外山さんの句には〈見る〉ことのふしぎな位相が複合化されているようにおもうんです。
「見たいなら見てもいゝけど」とは、〈見る〉〈見ない〉というあり方だけでなく、〈見たいから見る〉〈見たくないけど見る〉〈見てもいいといわれたから見る〉〈見てもいいといわれたけれど見ない〉など、〈見る〉ことが複合化されています。
さいきん外山さんが書かれた俳句時評の最終回にこんな一節がありました。
僕は―高柳重信の「「書き」つつ「見る」行為」ではありませんが―何かを書くということはそういうことだと思っています。誰も読まなくたって書くということは、誰も読まないうちに書くということ、さらにいえば、誰も読まないものを書く、あるいは誰も読みたくないものを書く、ということでもあります。
外山一機「俳句時評を終えるにあたって―附・時評一覧 」
〈誰も読みたくないものを書く〉ということは、ある意味、〈読みたいなら読んでもいい〉であり、さきほど述べたような〈読むこと〉の複合化をもたらします。
つまり、外山さんの生成している意味空間の位相とは、〈読ませる〉〈見せる〉空間というよりは、〈読む〉〈見る〉のばらばらな断片のありかたが投げられていて、それを読み手が選択し、みずから〈読む〉ことや〈見る〉ことを相対化しつつ、〈読む〉〈見る〉行為を実践する空間なのではないかとおもうのです。
〈読む〉こと、〈見る〉こと、〈書く〉ことというのは、じつは一元的なかたちで制度におもいがけなくも縛られている場合もあって、その制度のもとに〈読む・見る・書く〉を一元化していくことも、ある。
でも、メルヴィルの「バートルビー」のなかでバートルビーがすべてを拒絶しながら語り手を相対化していたように、〈読まない〉〈見ない〉〈書かない〉の分岐をあわせもちながらも〈読む〉〈見る〉〈書く〉というありかたをつねにかんがえる立場もあるのではないかとおもうのです。
もし「読書家」「活字中毒」という言葉がうさんくさく感じられる場合があるのだとしたら、じつはそういったバートルビー的反措定のありかたがとっぱらわれてしまっているからではないかとおもうのです。
「見たいなら見てもいいけど」見なくてもいい。
でも「見たいなら見てもいいけど」見てもいい。
そういう分岐の曲がり角にたちながら、読んだり・見たり・書いたりすること。
じつは〈時評〉の語り手とはそういう分岐の曲がり角につねにたちつづけるひとのことだったのではないかとおもうのです。
「読みたいなら読んでもいいけど」という亀裂のなかで書き続けるひと。
だから外山さんの意味空間では、一元的に〈見〉ているひとがいれば、語り手は気になってしまうのではないかとおもうのです。
ねえ、あの坊主さっきからきくらげしか見てない。 巻民代
バートルビーの中枢部にあるのは、「純粋かつ絶対的な潜勢力」、決して現勢化せず永久に潜勢力のままにとどまり続ける潜勢力の感触だった。誰もバートルビーの欲望を点火できない。
杉田俊介『無能力批評』
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