立派な大人になれなかった大人が書くあとがき。
- 2015/08/20
- 12:00
がんばりましやうのスタンプ天道虫 中山奈々
むかしむかしこの世界にはコンビニがなかった。代々伝わる言い伝えによれば、ある新月の晩に天から突然飛来したコンビニ店舗の形した謎の飛行物体が煌々と輝く蛍光灯の光とともに雲の切れ間からすがたをあらわした 岡田利規「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」『悲劇喜劇』2015/1
俳誌『鬣 TATEGAMI』(55号・2015年5月)の外山一機さんの俳句時評「立派な大人にはなれない」において、わたしが以前『週刊俳句』に載せていただいた「【ぼんやりを読む】ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)」を取り上げていただいていました。外山さん、ありがとうございました!
この外山さんの時評は中山奈々さんを語ることの「困難」から始まっていて、その「困難」がじつはわたしたちを取り巻いている〈ぼんやりした語りの土台〉へと話が接続されていたと思うのですが(そのときにわたしの鴇田智哉さんと石原ユキオさんとゾンビをめぐる話が出てくるわけです)、これはいまやマンガ・アニメ・小説・映画・戯曲・短詩ぜんぱんにいえることかもしれないともおもうんです。
表現をどのような〈土台〉で〈どう〉語ればいいのか、という〈語りの土台〉がもはや誰にも共有化されえない事態。「立派な大人にはなれない」と外山さんが時評のタイトルにつけたように、語るための〈立派な土台〉がもはやどこにもない状態。〈立派なゾンビ〉がいないように、〈立派な語り〉もない様態。〈ぼんやり〉のなかで、そのつど、かちっ、かちっ、と言説化されていくような島宇宙的状況と様相。
外山さんは宇野常寛さんの「アイデンティティというフィクションは、もやはローカルな共同体に置くしかない」ということばを引用されていますが、こうした〈ローカリティ〉としての〈土台の偏差〉のなかで、たとえば福嶋亮大さんが指摘しているような、〈快楽原則に流されない大きな物語〉をそれでも提示できるのかどうかが問われているようにもおもいます。
ポストモダンのときとはべつのかたちでまた〈大きな物語〉がかえってきてるわけです。ある意味で、〈大きな物語〉ではなく、〈大きな物語を相対化しつづける大きな物語〉への志向性が。それは〈大小〉生成ではなく、〈遠近〉生成の問題として。
そこですこし思い出したのが、『俳句新空間』でずっと外山さんが書き続けておられた俳句時評の最終回のことばでした。
いったい「僕たち」とは誰なのか。…僕にとって「僕たち」とは、僕がついに出会うことのない幻の共同体を指す言葉でした。僕が「僕たち」というとき、それは誰を指してもいません。強いていえば、僕が「僕たち」という言葉を発したとき、それはいつも、誰かに繋がろうとするささやかな祈りを伴うものであったように思います。…この時評でとりあげたのは、どのような意味であれ、僕にとって重要なことがらばかりでした。逆にいえば、どれほど話題になっていようとも、僕にとって重要でないことは一切とりあげないように努めました。…こうした偏向に僕の限界がありますが、一方ではこうした執着を隠さずにおくことが僕なりの正義の示しかたでもありました。
外山一機「俳句時評を終えるにあたって―附・時評一覧 」
わたしはこれを読んだとき外山さんは〈時評〉を語る主体を書き続け・考え続けながら〈ここ〉にたどりついたのではないかと思ったんです。そしてその外山さんのたどりついた〈ここ〉としての〈切実さ〉を先日の時評の最後にやはり時評を担当されている堀下翔さんは書かれていたんじゃないかとおもうんです(参照:堀下翔「【俳句時評】松尾あつゆき『原爆句抄』に関して 」)。
「僕たち」というまぼろしでおぼろげな〈ぼんやりした共同体〉を祈るように志向しつつも、そこに回収されない「僕」の〈偏向〉をそのまま〈時評〉として書くこと。そしてその隠されえなかった〈偏差〉だけが、〈ここ〉として書きつづる時評=文章を相対化できる〈正義〉になりうること。
もしかしたらこの外山さんの提出した〈時評〉における〈僕〉というのは〈ぼんやり〉を相対化するための大切なヒントになるようにもおもうんです。
時評のことを考えるときに上田信治さんの言葉が印象的なのですが、上田さんは時評を、
「時評」というのは「反応」です。…そして、時評は、反応によって、その反応の主体の立ち位置・輪郭を「はっきりさせる」ために書かれます。 上田信治「【週刊俳句時評81】 時評というもの 筑紫磐井『21世紀俳句時評』をめぐって」
と書かれていました。
「反応」によって〈僕〉の輪郭を「はっきり」(not ぼんやり)させるもの。
もしかしたら、〈私性〉というはっきりとした〈偏差〉についていちばん考える/考えざるをえない表現ジャンルとは、〈時評〉なのではないか。
さいきんは、そんなことをすこしおもっているのです。
そしてそこから、あらためて、いまふたたび、おもうのです。
時評って、なんなのだろう、と。
それは〈どこ〉にあるものなのだろう、と。
今はとにかく物事を見るパースペクティブは完全に壊れちゃってるから、多少強引でも何らかの大きな物語を作る必要がある。そうじゃないと、一行コメントの賛成や批判ばかりで言論が埋まってしまう。ただ、それと同時に、物語の快楽原則に流されすぎてもいけないと思うんですよ。そもそも、日本の伝統を古代まで遡ってみると、トラウマティックな出来事をあえて物語の中で反復していたりもする。中世なら『平家物語』、近代であれば中上健次の小説なのです。単に無批判に「日本ってこんなにすごい国なんですよ」という快楽的な物語を提示するのではなくて、逆に不快で否定的な出来事までも全部貪欲に飲み込んでいくというのが、真に日本的な物語のスタイルだと思います。要は、物語批判を組み込んだ物語こそが日本文学のコアを作ってきた。
福嶋亮大「すべては「崩壊」から始まった-日本人の「美と国民性」の源流」『新潮45』2014・7
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