【お知らせ】「【短詩時評】川柳を〈読む〉こと、〈読む〉ことを〈読む〉こと、〈読まない〉で〈読む〉こと-高野文子・小林秀雄・安福望-」『BLOG俳句新空間 第24号』
- 2015/08/21
- 06:23
『 BLOG俳句新空間 第24号』にて「【短詩時評】川柳を〈読む〉こと、〈読む〉ことを〈読む〉こと、〈読まない〉で〈読む〉こと-高野文子・小林秀雄・安福望-」という文章を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
以前から書かせていただいていた『俳句新空間』だったのですが、今回から、これまで書かれていた外山一機さんの俳句時評の後を引き継いで、毎月下旬の短詩時評を担当させていただくことになりました(上旬は堀下翔さんが担当されています)。
第一回目は、短詩を〈読む〉ことをめぐって書いてみました。
感想文をずっと書きつづけてきて、いつも書くたびごとに思っていることは、なぜ〈短〉詩を定型の長さ以上の〈長〉文として解釈する必要があるのか、ということです。たぶん、短詩を読むという行為はいつもそういうジレンマが胚胎しているはずで、でもだからこそ、〈読む〉ということをつねに考えざるをえない場所になっているのではないかともおもうのです。
つまり、短詩を読むということは、短詩と向き合い、短詩を読むことであると同時に、読むことと向き合い、読むことを読む/読まないための場所にもなっているのではないかと。
そういう〈読むこと〉と〈読まないこと〉と〈読まれないこと〉と〈読まれたくないこと〉と〈書くこと〉をめぐる外山さんの時評のさいごに書かれた言葉からはじめてみたいと思いました。
僕はこの俳句時評を誰よりも僕自身のために書いていました。僕は―高柳重信の「「書き」つつ「見る」行為」ではありませんが―何かを書くということはそういうことだと思っています。誰も読まなくたって書くということは、誰も読まないうちに書くということ、さらにいえば、誰も読まないものを書く、あるいは誰も読みたくないものを書く、ということ 外山一機「俳句時評を終えるにあたって―附・時評一覧 」
亡霊たち、手紙=文学を書くとき、なぜ人はいつも亡霊たちを呼び出すのか?
人は亡霊が到来するままにしておく、というよりもむしろ亡霊を巻き添えにする、また人は亡霊のために書く、亡霊に手を貸す、けれども、なぜそうなのか?
君は以前、私に、あのミレナへの手紙を読むように仕向けた、そのなかで、彼[カフカ]はほとんど同じことを言っている、精霊=亡霊とともに思弁する[観察する]、亡霊の前で裸になるということだった。
この人は手紙(の上に/ついて)しか書けなかった、そうした最後の人たちのひとりだ、最終的にはフロイトとともに。 デリダ『絵葉書Ⅰ』
本当の事書いてある手紙読む/竹井紫乙
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
以前から書かせていただいていた『俳句新空間』だったのですが、今回から、これまで書かれていた外山一機さんの俳句時評の後を引き継いで、毎月下旬の短詩時評を担当させていただくことになりました(上旬は堀下翔さんが担当されています)。
第一回目は、短詩を〈読む〉ことをめぐって書いてみました。
感想文をずっと書きつづけてきて、いつも書くたびごとに思っていることは、なぜ〈短〉詩を定型の長さ以上の〈長〉文として解釈する必要があるのか、ということです。たぶん、短詩を読むという行為はいつもそういうジレンマが胚胎しているはずで、でもだからこそ、〈読む〉ということをつねに考えざるをえない場所になっているのではないかともおもうのです。
つまり、短詩を読むということは、短詩と向き合い、短詩を読むことであると同時に、読むことと向き合い、読むことを読む/読まないための場所にもなっているのではないかと。
そういう〈読むこと〉と〈読まないこと〉と〈読まれないこと〉と〈読まれたくないこと〉と〈書くこと〉をめぐる外山さんの時評のさいごに書かれた言葉からはじめてみたいと思いました。
僕はこの俳句時評を誰よりも僕自身のために書いていました。僕は―高柳重信の「「書き」つつ「見る」行為」ではありませんが―何かを書くということはそういうことだと思っています。誰も読まなくたって書くということは、誰も読まないうちに書くということ、さらにいえば、誰も読まないものを書く、あるいは誰も読みたくないものを書く、ということ 外山一機「俳句時評を終えるにあたって―附・時評一覧 」
亡霊たち、手紙=文学を書くとき、なぜ人はいつも亡霊たちを呼び出すのか?
人は亡霊が到来するままにしておく、というよりもむしろ亡霊を巻き添えにする、また人は亡霊のために書く、亡霊に手を貸す、けれども、なぜそうなのか?
君は以前、私に、あのミレナへの手紙を読むように仕向けた、そのなかで、彼[カフカ]はほとんど同じことを言っている、精霊=亡霊とともに思弁する[観察する]、亡霊の前で裸になるということだった。
この人は手紙(の上に/ついて)しか書けなかった、そうした最後の人たちのひとりだ、最終的にはフロイトとともに。 デリダ『絵葉書Ⅰ』
本当の事書いてある手紙読む/竹井紫乙
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