【感想】だいじょうぶ、昨日さんまさんもそう言ってた。 巻民代
- 2015/08/21
- 20:16
だいじょうぶ、昨日さんまさんもそう言ってた。 巻民代
【あたしのさんまさんと俳句をめぐって】
〈巻民代/外山一機〉という表現主体をかんがえるときにひとつこんなことばがとっかかりになるのではないかとおもうんですね。
巻民代は外山一機の別称です。…思えば、外山一機の名で発表していた作品の裏側に、袋小路へと入っていくことを是とする人間の見せるあのいやらしい顔つきがちらつき始めたのは、『新撰21』刊行以後のことでした。袋小路の中で苛々していることや、あるいはまた袋小路を突破しようとすることは、どちらも立派なことなのでしょう。けれど、僕はそのときの僕のいやらしい顔つきをどうしても許すことができなかったのです。僕は外山一機が嫌いです。
外山一機「あとがき」『外山一機句集附録 御遊戯 巻民代追悼句集』
外山さんが『俳句新空間』の時評でじぶんはあえて「僕ら」「僕」という偏差のかかった人称を使ってきたと書かれていたように、外山さんの意味空間のなかで〈人称〉と〈書くこと〉の関連はおもいのほか、大きいとおもうんです。というよりも、それがそのまま率直に主題化されたのが〈巻民代〉なのではないかとおもうんです。
たとえば掲句なんですが、これはある意味で、〈人称性〉と〈語ること〉を主題にもつ句といえます。なぜなら、こんなふうに置換することで意味性がまったく変わってしまうからです。
だいじょうぶ、昨日さんまさんもそう言ってた。 巻民代
だいじょうぶ、昨日さんまさんもそう言ってた。 外山一機
だいじょうぶ、昨日外山一機もそう言ってた。 巻民代
だいじょうぶ、昨日巻民代もそう言ってた。 外山一機
だいじょうぶ、昨日外山一機も巻民代もそう言ってた。 明石家さんま
だいじょうぶ、昨日柳本々々もそう言ってた。 巻民代
〈だれ〉が〈だれ〉のことを〈だれ〉として語るかで偏差のあるなしに関わらず、ことばの偏差は変わってきます。つまり、ことばは、とくに短詩は、人称的かかわり合いによって意味内容が転変する文芸形式であるかもしれない。
僕自身は俳句の中心に「挨拶」を置いているものですから、「挨拶」には季語、「いま」「ここ」というものがくっついている
小澤實『今、俳人は何を書こうとしているのか』
たとえば小澤實さんが俳句の中心に挨拶を置いていると述べられていましたが、俳句をたとえば挨拶の文芸だとするならば、〈挨拶〉というある意味、普遍的なことばで語りつつも、しかし誰が誰に「おはよう」と発話するかでその「おはよう」の質も変わってくる人称的かかわり合いをせざるをえないのが〈挨拶〉でもあります。
そんなふうに、短詩と人称的かかわり合いの問題を、あるときは、言葉のズラし・模倣として非人称的に、あるときは人称そのものをズラすことによって非人称に、ということは、うらがえって、〈人称的〉にかかわりつづけているのが外山さんのひとつの表現空間なのではないかともおもうのです。
書く主体をめぐって〈わたし〉と〈わたしA〉と〈わたしB〉など〈わたし〉の人称的かかわり合いをかんがえてみるということ。
昨日いい言葉覚えたの、ソーカツ。 巻民代
虹を裂き、だいたいにして、つきかえす。 御前田あなた
【あたしのさんまさんと俳句をめぐって】
〈巻民代/外山一機〉という表現主体をかんがえるときにひとつこんなことばがとっかかりになるのではないかとおもうんですね。
巻民代は外山一機の別称です。…思えば、外山一機の名で発表していた作品の裏側に、袋小路へと入っていくことを是とする人間の見せるあのいやらしい顔つきがちらつき始めたのは、『新撰21』刊行以後のことでした。袋小路の中で苛々していることや、あるいはまた袋小路を突破しようとすることは、どちらも立派なことなのでしょう。けれど、僕はそのときの僕のいやらしい顔つきをどうしても許すことができなかったのです。僕は外山一機が嫌いです。
外山一機「あとがき」『外山一機句集附録 御遊戯 巻民代追悼句集』
外山さんが『俳句新空間』の時評でじぶんはあえて「僕ら」「僕」という偏差のかかった人称を使ってきたと書かれていたように、外山さんの意味空間のなかで〈人称〉と〈書くこと〉の関連はおもいのほか、大きいとおもうんです。というよりも、それがそのまま率直に主題化されたのが〈巻民代〉なのではないかとおもうんです。
たとえば掲句なんですが、これはある意味で、〈人称性〉と〈語ること〉を主題にもつ句といえます。なぜなら、こんなふうに置換することで意味性がまったく変わってしまうからです。
だいじょうぶ、昨日さんまさんもそう言ってた。 巻民代
だいじょうぶ、昨日さんまさんもそう言ってた。 外山一機
だいじょうぶ、昨日外山一機もそう言ってた。 巻民代
だいじょうぶ、昨日巻民代もそう言ってた。 外山一機
だいじょうぶ、昨日外山一機も巻民代もそう言ってた。 明石家さんま
だいじょうぶ、昨日柳本々々もそう言ってた。 巻民代
〈だれ〉が〈だれ〉のことを〈だれ〉として語るかで偏差のあるなしに関わらず、ことばの偏差は変わってきます。つまり、ことばは、とくに短詩は、人称的かかわり合いによって意味内容が転変する文芸形式であるかもしれない。
僕自身は俳句の中心に「挨拶」を置いているものですから、「挨拶」には季語、「いま」「ここ」というものがくっついている
小澤實『今、俳人は何を書こうとしているのか』
たとえば小澤實さんが俳句の中心に挨拶を置いていると述べられていましたが、俳句をたとえば挨拶の文芸だとするならば、〈挨拶〉というある意味、普遍的なことばで語りつつも、しかし誰が誰に「おはよう」と発話するかでその「おはよう」の質も変わってくる人称的かかわり合いをせざるをえないのが〈挨拶〉でもあります。
そんなふうに、短詩と人称的かかわり合いの問題を、あるときは、言葉のズラし・模倣として非人称的に、あるときは人称そのものをズラすことによって非人称に、ということは、うらがえって、〈人称的〉にかかわりつづけているのが外山さんのひとつの表現空間なのではないかともおもうのです。
書く主体をめぐって〈わたし〉と〈わたしA〉と〈わたしB〉など〈わたし〉の人称的かかわり合いをかんがえてみるということ。
昨日いい言葉覚えたの、ソーカツ。 巻民代
虹を裂き、だいたいにして、つきかえす。 御前田あなた
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