【感想】おふとんも雲南省も二つ折り なかはられいこ
- 2015/08/24
- 01:00
おふとんも雲南省も二つ折り なかはられいこ
【不健全は、希望】
『週刊俳句』のなかはられいこさんの「テーマなんてない」からの一句です。
御前田あなたという人間の絵川柳ってどこから始まっているかっていうと、なかはられいこさんのこの句をふっと描いてみたところから始まってるんです。
行かないと思う中国も天国も なかはられいこ
この句はもともと好きな句で、まず〈不健全〉なのでいいなとおもっていたんですね。天国には行ってもいいじゃないですか。でも、行かないという。しかも「行かないと思う」なんですよ。ちょっとすねてるような感じもあるんですよ。俺は行かないとおもう、みたいな。強くこっちこいよ! って言われたら行きそうでもある。だからこの行かなそうな人間はきっと〈不健全〉な人間なんじゃないかとおもって、髪の毛をくしゃくしゃにしてみたんですよ。きっとエンデのモモみたいなたくましい〈不健全さ〉をもっているのではないかとおもって。
で、なかはらさんのこの句をいまみていたら、金原まさ子さんのこんなことばを思い出したんです。
良い人は天国へ行ける。悪い人はどこへでも行ける 金原まさ子
石部明さんの記事を書いたときにもそういったんですが、現代川柳の魅力のひとつは、《大いなる不健全さ》なのではないかとおもうんです。定型をとおすと不健全でも許されることに、川柳はきがついてしまった。それが現代川柳を加速させた駆動力でもあったんじゃないかとおもうんです。つまり大胆にいってみれば、ひとはなぜ現代川柳をやるのかといえば、それは「悪い人」になるためなのではないか。「悪い人」になることによって、いくら経験知を重ねても、いくら理性をとぎすましても、それでもなんども現代川柳をとおしてひとは「悪い人」に〈生まれ直そう〉としているのではないか。じぶんがじぶんからいきのびるために。
いちばんうえのなかはらさんの掲句の連作タイトルは「テーマなんてない」なんですが、「テーマをもたない」ということは、金原さんのことばを借りれば「どこへでも行ける」ということなんじゃないかとおもうんですよ。ひとつの枠組みに、国籍に、一義性に縛られない悪い人になるということなんじゃないかと。
でもおもしろいのが、悪い人なんだからどこにでもいけるんだけれど、「行かないと思う」んですよね「中国も天国も」。
おふとんも雲南省も二つ折り なかはられいこ
という句にもあるようになかはらさんにとって〈国〉っていうのはまず行くべき場所でも帰る場所でも考える場所でもなくて、まず、〈閉じる場所〉のようにおもうんですよ。〈国〉は〈閉じられている〉。
産院の窓の向こうのオズの国 なかはられいこ
「中国」や「天国」や「雲南省」はゆく途が閉ざされ、「オズの国」という幻想的な国家だけは、「病院の窓」という〈傷〉をとおして志向される。でもそれもまた「病院の窓」によって閉ざされてもいる。
なかはらさんの川柳空間の積極的不健全さとは、じつは悪人なんだから「どこへでも行ける」のに、国を閉鎖していく〈悪さ〉をもっているぶぶんなんじゃないかとおもうんです。そしてその〈不健全さ〉がひとつ積極的な現代川柳の魅力にもなっているのかなと。
不健全さという希望の形式が、です。
どこにも行けることを知りながら、どこにも行かない場所を選びとりつづける〈不健全さ〉。不健全さとしての無国籍。〈脱衣場〉にあったのは〈無国籍〉という〈脱テーマ〉という〈不健全さ〉であったのかもしれない(〈脱ー健全さ〉)。
なかはらさんの川柳空間においては、「にっぽん」を応援しはじめると、つまり〈ナショナリティー〉をまといはじめると、「中国も天国も」行かないと思う語り手だったので、ガムも味気なくなり、「もう味のしないガム」になる。
にっぽんチャチャチャもう味のしないガム なかはられいこ
【不健全は、希望】
『週刊俳句』のなかはられいこさんの「テーマなんてない」からの一句です。
御前田あなたという人間の絵川柳ってどこから始まっているかっていうと、なかはられいこさんのこの句をふっと描いてみたところから始まってるんです。
行かないと思う中国も天国も なかはられいこ
この句はもともと好きな句で、まず〈不健全〉なのでいいなとおもっていたんですね。天国には行ってもいいじゃないですか。でも、行かないという。しかも「行かないと思う」なんですよ。ちょっとすねてるような感じもあるんですよ。俺は行かないとおもう、みたいな。強くこっちこいよ! って言われたら行きそうでもある。だからこの行かなそうな人間はきっと〈不健全〉な人間なんじゃないかとおもって、髪の毛をくしゃくしゃにしてみたんですよ。きっとエンデのモモみたいなたくましい〈不健全さ〉をもっているのではないかとおもって。
で、なかはらさんのこの句をいまみていたら、金原まさ子さんのこんなことばを思い出したんです。
良い人は天国へ行ける。悪い人はどこへでも行ける 金原まさ子
石部明さんの記事を書いたときにもそういったんですが、現代川柳の魅力のひとつは、《大いなる不健全さ》なのではないかとおもうんです。定型をとおすと不健全でも許されることに、川柳はきがついてしまった。それが現代川柳を加速させた駆動力でもあったんじゃないかとおもうんです。つまり大胆にいってみれば、ひとはなぜ現代川柳をやるのかといえば、それは「悪い人」になるためなのではないか。「悪い人」になることによって、いくら経験知を重ねても、いくら理性をとぎすましても、それでもなんども現代川柳をとおしてひとは「悪い人」に〈生まれ直そう〉としているのではないか。じぶんがじぶんからいきのびるために。
いちばんうえのなかはらさんの掲句の連作タイトルは「テーマなんてない」なんですが、「テーマをもたない」ということは、金原さんのことばを借りれば「どこへでも行ける」ということなんじゃないかとおもうんですよ。ひとつの枠組みに、国籍に、一義性に縛られない悪い人になるということなんじゃないかと。
でもおもしろいのが、悪い人なんだからどこにでもいけるんだけれど、「行かないと思う」んですよね「中国も天国も」。
おふとんも雲南省も二つ折り なかはられいこ
という句にもあるようになかはらさんにとって〈国〉っていうのはまず行くべき場所でも帰る場所でも考える場所でもなくて、まず、〈閉じる場所〉のようにおもうんですよ。〈国〉は〈閉じられている〉。
産院の窓の向こうのオズの国 なかはられいこ
「中国」や「天国」や「雲南省」はゆく途が閉ざされ、「オズの国」という幻想的な国家だけは、「病院の窓」という〈傷〉をとおして志向される。でもそれもまた「病院の窓」によって閉ざされてもいる。
なかはらさんの川柳空間の積極的不健全さとは、じつは悪人なんだから「どこへでも行ける」のに、国を閉鎖していく〈悪さ〉をもっているぶぶんなんじゃないかとおもうんです。そしてその〈不健全さ〉がひとつ積極的な現代川柳の魅力にもなっているのかなと。
不健全さという希望の形式が、です。
どこにも行けることを知りながら、どこにも行かない場所を選びとりつづける〈不健全さ〉。不健全さとしての無国籍。〈脱衣場〉にあったのは〈無国籍〉という〈脱テーマ〉という〈不健全さ〉であったのかもしれない(〈脱ー健全さ〉)。
なかはらさんの川柳空間においては、「にっぽん」を応援しはじめると、つまり〈ナショナリティー〉をまといはじめると、「中国も天国も」行かないと思う語り手だったので、ガムも味気なくなり、「もう味のしないガム」になる。
にっぽんチャチャチャもう味のしないガム なかはられいこ
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