【感想】懸命にさがす昭和の句読点 佐藤古拙
- 2015/08/25
- 12:30
懸命にさがす昭和の句読点 佐藤古拙
【言説の句読点を、ズラす】
古拙さんの句集『人畜無害』からの一句です。
佐藤卓己さんの『八月十五日の神話:終戦記念日のメディア学』などの研究からさいきんよくいわれるようになったことでもあるんですが、なぜ〈日本人〉は〈終戦記念日〉の〈8月15日〉から〈アジア=太平洋戦争〉を考えつづけるのか、という問題があります。〈戦後70年〉もそうなのだけれど、〈終戦記念日〉に「句読点」を打っている。
たとえば、大澤真幸さんがこんな指摘をしています。
日本人は、敗戦を否認した。たとえば、日本人(と韓国人)だけは、戦争を「八月十五日」と結びつけて記憶している。この日は、国際的には何の意味もない日である。国際法にかなった形での戦争の終わりの日を言うなら、八月十四日(ポツダム宣言受諾)か九月二日(降伏文書調印)である。にもかかわらず、日本人は八月十五日のみを記憶している。玉音放送があったこの日であれば、「敗戦」ではなく「終戦」として記憶することができるからである。敗戦を否認したために、ある意味で、《日本人にとって真の戦後は始まってさえいない》。始まっていない以上、終わるはずがない。
大澤真幸『ナショナリズムとグローバリズム』
「8月14日」でもなく「9月2日」でもなく、「8月15日」の〈終戦〉を〈終わり〉と規定することによって、〈敗戦〉という言説を回避したのではないかというのが大澤さんの指摘だとおもいます。
つまり〈終わり〉を回避することによって〈終わり〉を正対することを避けたんだと。だから〈日本人にとって真の戦後は始まってさえいない〉と。
そういう〈終わり〉をどこにもってくるかで、言説の流れや記憶/記録の構築のしかたが変わってくる場合があります。
たとえば文学研究において二葉亭四迷の『浮雲』研究をめぐる〈終わり〉の政治学について研究した高橋修さんはこんな指摘をしています。
周知のように、二葉亭四迷『浮雲』は、「日本最初の近代小説」(柄谷行人)、はじめての言文一致体小説という特殊な位置に置かれてしまっています。そこを入り口として意味づけられることがほとんどです。
だからこそ発展史的な見方がされがちであるわけです。こうした進化論的な発想から一旦離れて、同時代の他のテクストの一つとして、また先行テクストとともに『浮雲』を考えること、それが地味ですが、むしろ『浮雲』を見直すことになるのではないでしょうか。
脱神話化といったらいいか。ありふれた小説の一つとして読み、そのなかで差異をすくい上げることが重要だと思います。
高橋修「二葉亭四迷『浮雲』を見直す」『文學藝術』2011・2
と指摘しているんですが、そのように〈はじまり〉や〈終わり〉を無意識に規定しながら、「発展史的/進化論的な」物語を知らず知らずのうちに再生産しつづけていることがある。
だからじぶんがいまもっている「句読点」や〈終わり〉がほんとうに〈そこ〉が〈終わり〉なのか、他の抑圧されたさまざまな〈終わり〉の相対化のなかの〈終わり〉として考えることはできないか。
そういう〈終わり〉について考えてみることが、じぶんの〈いまここ〉のことばの〈始まり〉をかんがえなおすきっかけにもなるんじゃないかとおもうんです。
そう考えると大木はちさんの短歌でなぜ〈終わり〉ではなく、「いつ始まったのか」という〈始まり〉が主題化されていたのは、〈終わり〉のひとつの相対化としてとても意義深いことのようにおもえるのです。
戦争が終わり今年で七十年いつ始まったのか知っていますか 大木はち
物語の〈終り〉は、同時代の想像力と抜きさしなならない共犯関係にあるということができる 高橋修「『不如帰』の結末-「征清戦争」をめぐるメタファー」『共立女子短期大学文科紀要』50
【言説の句読点を、ズラす】
古拙さんの句集『人畜無害』からの一句です。
佐藤卓己さんの『八月十五日の神話:終戦記念日のメディア学』などの研究からさいきんよくいわれるようになったことでもあるんですが、なぜ〈日本人〉は〈終戦記念日〉の〈8月15日〉から〈アジア=太平洋戦争〉を考えつづけるのか、という問題があります。〈戦後70年〉もそうなのだけれど、〈終戦記念日〉に「句読点」を打っている。
たとえば、大澤真幸さんがこんな指摘をしています。
日本人は、敗戦を否認した。たとえば、日本人(と韓国人)だけは、戦争を「八月十五日」と結びつけて記憶している。この日は、国際的には何の意味もない日である。国際法にかなった形での戦争の終わりの日を言うなら、八月十四日(ポツダム宣言受諾)か九月二日(降伏文書調印)である。にもかかわらず、日本人は八月十五日のみを記憶している。玉音放送があったこの日であれば、「敗戦」ではなく「終戦」として記憶することができるからである。敗戦を否認したために、ある意味で、《日本人にとって真の戦後は始まってさえいない》。始まっていない以上、終わるはずがない。
大澤真幸『ナショナリズムとグローバリズム』
「8月14日」でもなく「9月2日」でもなく、「8月15日」の〈終戦〉を〈終わり〉と規定することによって、〈敗戦〉という言説を回避したのではないかというのが大澤さんの指摘だとおもいます。
つまり〈終わり〉を回避することによって〈終わり〉を正対することを避けたんだと。だから〈日本人にとって真の戦後は始まってさえいない〉と。
そういう〈終わり〉をどこにもってくるかで、言説の流れや記憶/記録の構築のしかたが変わってくる場合があります。
たとえば文学研究において二葉亭四迷の『浮雲』研究をめぐる〈終わり〉の政治学について研究した高橋修さんはこんな指摘をしています。
周知のように、二葉亭四迷『浮雲』は、「日本最初の近代小説」(柄谷行人)、はじめての言文一致体小説という特殊な位置に置かれてしまっています。そこを入り口として意味づけられることがほとんどです。
だからこそ発展史的な見方がされがちであるわけです。こうした進化論的な発想から一旦離れて、同時代の他のテクストの一つとして、また先行テクストとともに『浮雲』を考えること、それが地味ですが、むしろ『浮雲』を見直すことになるのではないでしょうか。
脱神話化といったらいいか。ありふれた小説の一つとして読み、そのなかで差異をすくい上げることが重要だと思います。
高橋修「二葉亭四迷『浮雲』を見直す」『文學藝術』2011・2
と指摘しているんですが、そのように〈はじまり〉や〈終わり〉を無意識に規定しながら、「発展史的/進化論的な」物語を知らず知らずのうちに再生産しつづけていることがある。
だからじぶんがいまもっている「句読点」や〈終わり〉がほんとうに〈そこ〉が〈終わり〉なのか、他の抑圧されたさまざまな〈終わり〉の相対化のなかの〈終わり〉として考えることはできないか。
そういう〈終わり〉について考えてみることが、じぶんの〈いまここ〉のことばの〈始まり〉をかんがえなおすきっかけにもなるんじゃないかとおもうんです。
そう考えると大木はちさんの短歌でなぜ〈終わり〉ではなく、「いつ始まったのか」という〈始まり〉が主題化されていたのは、〈終わり〉のひとつの相対化としてとても意義深いことのようにおもえるのです。
戦争が終わり今年で七十年いつ始まったのか知っていますか 大木はち
物語の〈終り〉は、同時代の想像力と抜きさしなならない共犯関係にあるということができる 高橋修「『不如帰』の結末-「征清戦争」をめぐるメタファー」『共立女子短期大学文科紀要』50
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