【こわい川柳 第七十八話】ささやかれるぜったい-石田柊馬-
- 2015/08/26
- 12:00
杉並区の杉へ天使降りなさい 石田柊馬
【恐怖の形式】
『セレクション柳人2 石田柊馬集』からの一句です。
柊馬さんの有名な句に
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
というものがあります。
これはいろんな解釈ができるとおもいますが、ひとつは、〈認識〉をめぐる句だということができるとおもうんですね。
〈絶対的主観〉としての〈認識〉の句です。
それは間違っているかもしれない。くつがえされるかもしれない。反証があふれるくらいに出てくるかもしれない。それでも「絶対似ている」と反復し、「絶対」をつけることによって言い切る〈絶対的主観〉のちからです。
まちがっているかもしれないけれど、まちがったらまちがっていたでそのまちがいのまま言語のちからとして押し通してしまうちからです。
これも川柳の〈言語的不健全さ〉のパワーだとおもうんですよね。
で、掲句です。
「杉並区の杉」と語り手はいっていますが、これは23区の地域カテゴリーとしての区分名称を地理からとらえずに、名称の意味カテゴリーから認識しているわけです。「杉並区」に「杉」はあるんだろうけれども、ほとんどのひとが「杉並区」の「杉」に意味をみいださない。なぜならそれは〈ラベル〉だからです。
ところがこの語り手にとっては「杉並区」は意味のカテゴリーなのでたとえそれがまちがっていたとしても、〈絶対的主観〉のなかではそこには「杉」があるはずなのです。そしてその「杉」へと「天使降りなさい」といっている。
ほかに柊馬さんにこんな句もあります。
西麻布の麻は元気にしてますか 石田柊馬
やはり「西麻布」の「麻」という意味カテゴリーから抜いた記号に語り手は寄っていくわけですが、ところがこんどは「麻は元気にしてますか」と「麻」を擬人化させる〈絶対的主観〉が入ります。
この〈認識の不健全さ〉からのその〈認識の不健全さ〉を押しとおす〈言語的不健全さ〉に川柳のひとつのパワーがあるんじゃないかとおもうんです。
この〈不健全〉のありようを、〈常態〉とする川柳の形式のありようはよくかんがえれば〈こわい〉ことでもあるんじゃないかとおもうんですよ。
なんで川柳ってそんなことができちゃうんだろう、と。
川柳は〈恐怖/驚怖の形式〉でもあるんじゃないかと。
でもたとえばわたしが80や90や100になってもそういう〈不健全さ〉を冗長させることなくもっていられるのがこの川柳の表現形式であり、だからこそそれは時間をまたいだ〈希望の形式〉にもなりうるんじゃないか、と。
それは10さいのわたしの不健全さや20のわたしの不健全さ、30の40の50の90の100のわたしの不健全をつなぐものとしてありうるんじゃないかと。いやこれはなにも生/死と階層化しなくてもいいんですよ。死後のわたしの不健全さとだって連絡したっていい。死んだあとの〈わたし〉にも不健全さはあるはずです、聖化しえないような。だから死後のわたしとも、つづく。川柳はしばしば〈死〉をにぎやかに語るものでもあるのだから。
ピンセットで膜をつつくと笑う死者 石田柊馬
生死や時間を超越した不健全なにんげんたちがタイムトンネルをぬけてゆきつもどつする形式。それが川柳だとおもうんです。
そして、そういう時間を超越しながらたえず問いかけていく〈タイムトンネルの形式〉をひとことでいうなら柊馬さんのこんな句がすごく的確にいいあらわしてくれているような気がするんですよ。
ドラえもんの青を探しにゆきませんか 石田柊馬
【恐怖の形式】
『セレクション柳人2 石田柊馬集』からの一句です。
柊馬さんの有名な句に
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
というものがあります。
これはいろんな解釈ができるとおもいますが、ひとつは、〈認識〉をめぐる句だということができるとおもうんですね。
〈絶対的主観〉としての〈認識〉の句です。
それは間違っているかもしれない。くつがえされるかもしれない。反証があふれるくらいに出てくるかもしれない。それでも「絶対似ている」と反復し、「絶対」をつけることによって言い切る〈絶対的主観〉のちからです。
まちがっているかもしれないけれど、まちがったらまちがっていたでそのまちがいのまま言語のちからとして押し通してしまうちからです。
これも川柳の〈言語的不健全さ〉のパワーだとおもうんですよね。
で、掲句です。
「杉並区の杉」と語り手はいっていますが、これは23区の地域カテゴリーとしての区分名称を地理からとらえずに、名称の意味カテゴリーから認識しているわけです。「杉並区」に「杉」はあるんだろうけれども、ほとんどのひとが「杉並区」の「杉」に意味をみいださない。なぜならそれは〈ラベル〉だからです。
ところがこの語り手にとっては「杉並区」は意味のカテゴリーなのでたとえそれがまちがっていたとしても、〈絶対的主観〉のなかではそこには「杉」があるはずなのです。そしてその「杉」へと「天使降りなさい」といっている。
ほかに柊馬さんにこんな句もあります。
西麻布の麻は元気にしてますか 石田柊馬
やはり「西麻布」の「麻」という意味カテゴリーから抜いた記号に語り手は寄っていくわけですが、ところがこんどは「麻は元気にしてますか」と「麻」を擬人化させる〈絶対的主観〉が入ります。
この〈認識の不健全さ〉からのその〈認識の不健全さ〉を押しとおす〈言語的不健全さ〉に川柳のひとつのパワーがあるんじゃないかとおもうんです。
この〈不健全〉のありようを、〈常態〉とする川柳の形式のありようはよくかんがえれば〈こわい〉ことでもあるんじゃないかとおもうんですよ。
なんで川柳ってそんなことができちゃうんだろう、と。
川柳は〈恐怖/驚怖の形式〉でもあるんじゃないかと。
でもたとえばわたしが80や90や100になってもそういう〈不健全さ〉を冗長させることなくもっていられるのがこの川柳の表現形式であり、だからこそそれは時間をまたいだ〈希望の形式〉にもなりうるんじゃないか、と。
それは10さいのわたしの不健全さや20のわたしの不健全さ、30の40の50の90の100のわたしの不健全をつなぐものとしてありうるんじゃないかと。いやこれはなにも生/死と階層化しなくてもいいんですよ。死後のわたしの不健全さとだって連絡したっていい。死んだあとの〈わたし〉にも不健全さはあるはずです、聖化しえないような。だから死後のわたしとも、つづく。川柳はしばしば〈死〉をにぎやかに語るものでもあるのだから。
ピンセットで膜をつつくと笑う死者 石田柊馬
生死や時間を超越した不健全なにんげんたちがタイムトンネルをぬけてゆきつもどつする形式。それが川柳だとおもうんです。
そして、そういう時間を超越しながらたえず問いかけていく〈タイムトンネルの形式〉をひとことでいうなら柊馬さんのこんな句がすごく的確にいいあらわしてくれているような気がするんですよ。
ドラえもんの青を探しにゆきませんか 石田柊馬
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