【感想】まだ間に合う夏のじゆうけんきゅう「短歌・川柳における〈換気〉問題-かんきのふしぎ-」
- 2015/08/26
- 12:30
換気扇の中から電車の音がする不思議な部屋に棲み始めたり 前田康子
換気扇で“科学的”を追い払う 石田柊馬
そのほかに除霊もできる換気扇 荻原裕幸
【私の自由研究2015-かんきのふしぎ-】
以前からきょうみをもって考えていたことに、短詩のなかの〈換気〉というものがあります。
これはそもそも柳誌『ねじまき』における荻原さんの〈換気〉の句が印象的だったので、ずっとじぶんのなかでこだましていた問題です。
で、さいきん〈換気〉の歌と句がみっつそろったのでちょっとかんがえてみました。短詩における〈換気〉とは、なんなのだろう、と。
まずひとついるのは、〈換気〉は〈異界〉とのアクセスであるということです。「中から電車の音がする」換気扇、「“科学的”を追い払う」換気扇、「除霊もできる」換気扇。テレビショッピングの売り文句みたいになってしまってはいるけれど、ここにあるのは〈換気〉が〈換気〉としての必要以上のパワーを発揮してしまっている事態です。
換気は、名前のとおりに、空〈気〉を交〈換〉するだけでいいのに、「電車音源」「非科学=スピリチュアル化」「除霊」など短詩のなかではさまざまな役目を果たします。
要するに〈異界〉とのアクセスとはいったものの、じつは〈こちら〉が〈あちら〉にアクセスするというよりも、〈いま・この〉部屋を〈換気〉することにより、〈異界〉としてつくり〈換〉えるのが、短詩における〈換気〉なのです。
ただ短詩が〈換気〉に興味をもつということ自体、換気で短詩をつくるということ自体が、実はひとつの短詩論にもなっています。
なぜなら、定型とはそのつど与えられる〈個室〉であり、さらに定型詩という〈個室〉は〈読み〉という〈換気〉によってそのつどつくりかえられていくからです。
だから短詩を読むという行為と、短詩のなかの換気とは、どこかで類似した構造をもっているのではないかとおもうのです。
定型詩をつくるものは、どこかで読者という〈換気扇〉とともに、「不思議な部屋に棲み始めた」ものたちなのではないかとおもうのです。
炎のなかのジャングルジムは美しい 石田柊馬
換気扇で“科学的”を追い払う 石田柊馬
そのほかに除霊もできる換気扇 荻原裕幸
【私の自由研究2015-かんきのふしぎ-】
以前からきょうみをもって考えていたことに、短詩のなかの〈換気〉というものがあります。
これはそもそも柳誌『ねじまき』における荻原さんの〈換気〉の句が印象的だったので、ずっとじぶんのなかでこだましていた問題です。
で、さいきん〈換気〉の歌と句がみっつそろったのでちょっとかんがえてみました。短詩における〈換気〉とは、なんなのだろう、と。
まずひとついるのは、〈換気〉は〈異界〉とのアクセスであるということです。「中から電車の音がする」換気扇、「“科学的”を追い払う」換気扇、「除霊もできる」換気扇。テレビショッピングの売り文句みたいになってしまってはいるけれど、ここにあるのは〈換気〉が〈換気〉としての必要以上のパワーを発揮してしまっている事態です。
換気は、名前のとおりに、空〈気〉を交〈換〉するだけでいいのに、「電車音源」「非科学=スピリチュアル化」「除霊」など短詩のなかではさまざまな役目を果たします。
要するに〈異界〉とのアクセスとはいったものの、じつは〈こちら〉が〈あちら〉にアクセスするというよりも、〈いま・この〉部屋を〈換気〉することにより、〈異界〉としてつくり〈換〉えるのが、短詩における〈換気〉なのです。
ただ短詩が〈換気〉に興味をもつということ自体、換気で短詩をつくるということ自体が、実はひとつの短詩論にもなっています。
なぜなら、定型とはそのつど与えられる〈個室〉であり、さらに定型詩という〈個室〉は〈読み〉という〈換気〉によってそのつどつくりかえられていくからです。
だから短詩を読むという行為と、短詩のなかの換気とは、どこかで類似した構造をもっているのではないかとおもうのです。
定型詩をつくるものは、どこかで読者という〈換気扇〉とともに、「不思議な部屋に棲み始めた」ものたちなのではないかとおもうのです。
炎のなかのジャングルジムは美しい 石田柊馬
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