【感想】おだやかに間違えてゆくひとたちと急に間違えるひとがいるだけ 松木秀
- 2015/08/26
- 20:24
おだやかに間違えてゆくひとたちと急に間違えるひとがいるだけ 松木秀
【ひとは短歌を詠むと何キロカロリー消費できるか】
今週の毎日歌壇・加藤治郎欄から松木さんの歌です。
さいきん短歌におけるカロリーが気になっているんですが、この歌って〈カロリー=熱量〉をめぐる歌なんじゃないかとおもうんです。
もちろん、読み方によってはこの歌は政治的な歌としても読めるし、人生のなかの日常的なひとこまの歌としても、読める。
だから読みの枠組みをどんなふうに設定するかで、カロリーが変わってくる歌ですよね。
そもそもこの歌は、「おだやか」と「急」で、「間違い」をめぐって熱量の違いがあらわれている。でも「間違える」点においては両者とも変わらないわけですよね。「だけ」という助詞があらわしているように、たとえどんな違いがあったってそこには「間違い」は「間違い」としてあるだけなんですよ。
だからふたつのカロリーのちがいを〈速度〉を基準に二項対立化しながらも、さいごの「だけ」でそれを脱構造化して、〈オンリーワン〉のカロリーにしていく。
たとえばこの歌では「おだやかに」がひらがな表記になっているけれど、そうした短歌における〈ひらがな表記〉もカロリーの問題なんじゃないかとおもうことがあるんです。
たとえばメールでもLINEでもいいけれど、いそいでいるときや無気力なときって漢字変換する気力もなくて、ひらがなのまま出したりしますよね。
だからこうした漢字変換という機能がメディアに搭載されることによって、そこから逆照射されるかたちで、〈無気力な語り手〉というのが「ひらがな表記」から逆生産されたりすることもあるとおもうんですよ。
話がすこしそれてしまいましたが、そういう短歌におけるカロリーの問題ってあるんじゃないかとおもうんですよ。
ちなみにモスの菜摘野菜バーガーオーソラソース仕立ては、155キロカロリーと異例の低さなんですが(菜摘【なつみ】という詩的な商品名なんですが)、松木さんの短歌には『古今和歌集』のなかの語り手の行為のカロリーをめぐるこんな歌もあります。
つまり、ひとは花を折るとき、何キロカロリー消費するのか。
とりあえず花折りすぎと言っておこう古今和歌集少しずつ読む 松木秀
【ひとは短歌を詠むと何キロカロリー消費できるか】
今週の毎日歌壇・加藤治郎欄から松木さんの歌です。
さいきん短歌におけるカロリーが気になっているんですが、この歌って〈カロリー=熱量〉をめぐる歌なんじゃないかとおもうんです。
もちろん、読み方によってはこの歌は政治的な歌としても読めるし、人生のなかの日常的なひとこまの歌としても、読める。
だから読みの枠組みをどんなふうに設定するかで、カロリーが変わってくる歌ですよね。
そもそもこの歌は、「おだやか」と「急」で、「間違い」をめぐって熱量の違いがあらわれている。でも「間違える」点においては両者とも変わらないわけですよね。「だけ」という助詞があらわしているように、たとえどんな違いがあったってそこには「間違い」は「間違い」としてあるだけなんですよ。
だからふたつのカロリーのちがいを〈速度〉を基準に二項対立化しながらも、さいごの「だけ」でそれを脱構造化して、〈オンリーワン〉のカロリーにしていく。
たとえばこの歌では「おだやかに」がひらがな表記になっているけれど、そうした短歌における〈ひらがな表記〉もカロリーの問題なんじゃないかとおもうことがあるんです。
たとえばメールでもLINEでもいいけれど、いそいでいるときや無気力なときって漢字変換する気力もなくて、ひらがなのまま出したりしますよね。
だからこうした漢字変換という機能がメディアに搭載されることによって、そこから逆照射されるかたちで、〈無気力な語り手〉というのが「ひらがな表記」から逆生産されたりすることもあるとおもうんですよ。
話がすこしそれてしまいましたが、そういう短歌におけるカロリーの問題ってあるんじゃないかとおもうんですよ。
ちなみにモスの菜摘野菜バーガーオーソラソース仕立ては、155キロカロリーと異例の低さなんですが(菜摘【なつみ】という詩的な商品名なんですが)、松木さんの短歌には『古今和歌集』のなかの語り手の行為のカロリーをめぐるこんな歌もあります。
つまり、ひとは花を折るとき、何キロカロリー消費するのか。
とりあえず花折りすぎと言っておこう古今和歌集少しずつ読む 松木秀
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