【感想】これがハイスピードカメラで記録した好きだと思い込む瞬間です 鯨井可菜子
- 2015/08/27
- 01:00
これがハイスピードカメラで記録した好きだと思い込む瞬間です 鯨井可菜子
写真はますます近代化し、その結果、今や共同住宅やゴミの山を撮影すれば必ずそれらを変貌させることになる。川や電線ケーブルは言うまでもないわけで、これらの前で、写真は今は「なんと美しい」と言うばかりである。 ベンヤミン「生産者としての作家」
【しゅんかんは、ながい。】
鯨井可菜子さんの『歌集 タンジブル』からの一首です。
岡野大嗣さんにこんな歌があります。
入口から出るおじさんを微速度の産卵シーン見るように見る 岡野大嗣
ハイスピード撮影と微速度撮影は〈ま逆〉なんですよね。
ハイスピードは高速度ですから、〈瞬間〉を〈ゆっくり〉展開する撮影。高速にシャッターが切られることでたくさんの瞬間の過程を映せる。〈瞬間の遅延〉といったかんじです。水がはじけるしゅんかんをスローでみるとか。
微速度は遅い速度で撮影するので、〈一定の時間〉を〈はやく〉展開する撮影。空がどんどん夜空になっていくのを撮影するとかそういう撮影ですよね。で、あとで短縮した時間のなかで空がどんどん黒く染まっていくのを、みる。低速で間をあけてシャッターがきられることであとでみたときてきぱきとはやくみえる。〈長時間の圧縮〉というかんじです。
だからたとえば亀がぽっこりぽっこりゆっくり生んでいるのを微速度/低速度で撮影すると、あとでみたときぽこぽこ手早く産まれてくる。だから岡野さんの短歌でもおじさんたちがぽこぽこ「入口から出」てくる。
で、この二首の短歌にみられるのは、〈恋愛(好きだ)〉も〈生(おじさん)/性(産卵)〉もデジタルが介入せざるをえない、ってことなんじゃないかとおもうんです。
そもそも「瞬間」っていうのはもしかすると写真メディアから発達してきたことばなのかもしれないけれども、ところが〈瞬間〉はいまや階層化されているわけです。
「好きだと思い込む瞬間」が〈わたし〉のものにも〈あなた〉のものにもならなくて、「ハイスピードカメラ」のものになっている。カメラで映せば〈瞬間〉の共有はできるのだけれど、じつはその〈瞬間の共有〉によって逆説的にわたしたちは〈固有の瞬間〉をうしない、均一化された瞬間を強制されることになる。たとえばこれが、好きになるしゅんかんではなくて、ビルがくずれる〈瞬間〉とかもありうるわけです。爆発するしゅんかんとか。でもその〈瞬間〉を共有/共用/強要できるということは(たとえばYouTubeですぐに共有できるということは)、うらがえれば〈瞬間〉を失ったともいえるのです。なぜなら〈瞬間〉は〈固有〉でしかありえず、ことばにすることが、イメージにすることが、表象することができないことでこれまで〈瞬間〉たりえたのだろうから。〈瞬間〉がイメージしうるのであればそれはもう〈瞬間〉ではなく〈時間〉になってるんだとおもうんですよ。
だからこの歌で「好きだと思い込む瞬間」の「思い込む」って意味が深いとおもうんですよ。なぜなら、この歌でいちばん「思い込」んでいるのは、おそらくこの「瞬間」が〈瞬間〉だと〈思い込〉んでいることなのだろうから。
〈恋愛〉や〈性/生〉も〈瞬間〉とおなじように表象できないものであったのだろうけれども、〈デジタルのまなざし〉という観点から共有/共用/強要できるものになっている。でもそれによって瞬間のアウラ(オーラ)のようなものがうしなわれていく。〈いま・ここ〉に〈このわたし〉の〈これ〉しかないんだという〈瞬間〉はもうない。岡野さんの歌にならえば、じつはわたしたちすべてはもう「おじさん」なわけです。〈このわたし〉はいなくて、〈すべてのおじさん〉がわたしたちです、固有名のない。「おじさん」とは〈瞬間〉を手に入れられないものの別称なわけです。どこの・だれでもない・アウラをうしなった、しかし産卵=性・根源とつながってゆくような。
鯨井さんの歌の「これ」や岡野さんの歌の「見る」が「〈わたしの〉これ」や「〈わたしの〉見る」になっていかない。〈恋愛〉や〈生/性〉は〈わたしの〉視線から簒奪されてある場合もある。
それがこれら歌の〈奪われたわたしの瞬間〉だともおもうんです。
瞬間を〈わたし〉のものにできるのか、それともできないのか、そもそもできていなかったのか、できるかできないかわからないけれどそれをむしろたのしんでしまうのか、たのしむことに実は〈わたし〉のしゅんかんがあるのか(これら二首にはそういうアイロニカルな〈たのしさ〉があります)。
デジタルによって簒奪されたしゅんかんと、定型によってそれを強奪しかえすしゅんかん。
いろんな〈しゅんかん〉をめぐる問題系がここにはあるようにおもいます。
目のふちが世界のふちや花粉症 山口優夢
写真はますます近代化し、その結果、今や共同住宅やゴミの山を撮影すれば必ずそれらを変貌させることになる。川や電線ケーブルは言うまでもないわけで、これらの前で、写真は今は「なんと美しい」と言うばかりである。 ベンヤミン「生産者としての作家」
【しゅんかんは、ながい。】
鯨井可菜子さんの『歌集 タンジブル』からの一首です。
岡野大嗣さんにこんな歌があります。
入口から出るおじさんを微速度の産卵シーン見るように見る 岡野大嗣
ハイスピード撮影と微速度撮影は〈ま逆〉なんですよね。
ハイスピードは高速度ですから、〈瞬間〉を〈ゆっくり〉展開する撮影。高速にシャッターが切られることでたくさんの瞬間の過程を映せる。〈瞬間の遅延〉といったかんじです。水がはじけるしゅんかんをスローでみるとか。
微速度は遅い速度で撮影するので、〈一定の時間〉を〈はやく〉展開する撮影。空がどんどん夜空になっていくのを撮影するとかそういう撮影ですよね。で、あとで短縮した時間のなかで空がどんどん黒く染まっていくのを、みる。低速で間をあけてシャッターがきられることであとでみたときてきぱきとはやくみえる。〈長時間の圧縮〉というかんじです。
だからたとえば亀がぽっこりぽっこりゆっくり生んでいるのを微速度/低速度で撮影すると、あとでみたときぽこぽこ手早く産まれてくる。だから岡野さんの短歌でもおじさんたちがぽこぽこ「入口から出」てくる。
で、この二首の短歌にみられるのは、〈恋愛(好きだ)〉も〈生(おじさん)/性(産卵)〉もデジタルが介入せざるをえない、ってことなんじゃないかとおもうんです。
そもそも「瞬間」っていうのはもしかすると写真メディアから発達してきたことばなのかもしれないけれども、ところが〈瞬間〉はいまや階層化されているわけです。
「好きだと思い込む瞬間」が〈わたし〉のものにも〈あなた〉のものにもならなくて、「ハイスピードカメラ」のものになっている。カメラで映せば〈瞬間〉の共有はできるのだけれど、じつはその〈瞬間の共有〉によって逆説的にわたしたちは〈固有の瞬間〉をうしない、均一化された瞬間を強制されることになる。たとえばこれが、好きになるしゅんかんではなくて、ビルがくずれる〈瞬間〉とかもありうるわけです。爆発するしゅんかんとか。でもその〈瞬間〉を共有/共用/強要できるということは(たとえばYouTubeですぐに共有できるということは)、うらがえれば〈瞬間〉を失ったともいえるのです。なぜなら〈瞬間〉は〈固有〉でしかありえず、ことばにすることが、イメージにすることが、表象することができないことでこれまで〈瞬間〉たりえたのだろうから。〈瞬間〉がイメージしうるのであればそれはもう〈瞬間〉ではなく〈時間〉になってるんだとおもうんですよ。
だからこの歌で「好きだと思い込む瞬間」の「思い込む」って意味が深いとおもうんですよ。なぜなら、この歌でいちばん「思い込」んでいるのは、おそらくこの「瞬間」が〈瞬間〉だと〈思い込〉んでいることなのだろうから。
〈恋愛〉や〈性/生〉も〈瞬間〉とおなじように表象できないものであったのだろうけれども、〈デジタルのまなざし〉という観点から共有/共用/強要できるものになっている。でもそれによって瞬間のアウラ(オーラ)のようなものがうしなわれていく。〈いま・ここ〉に〈このわたし〉の〈これ〉しかないんだという〈瞬間〉はもうない。岡野さんの歌にならえば、じつはわたしたちすべてはもう「おじさん」なわけです。〈このわたし〉はいなくて、〈すべてのおじさん〉がわたしたちです、固有名のない。「おじさん」とは〈瞬間〉を手に入れられないものの別称なわけです。どこの・だれでもない・アウラをうしなった、しかし産卵=性・根源とつながってゆくような。
鯨井さんの歌の「これ」や岡野さんの歌の「見る」が「〈わたしの〉これ」や「〈わたしの〉見る」になっていかない。〈恋愛〉や〈生/性〉は〈わたしの〉視線から簒奪されてある場合もある。
それがこれら歌の〈奪われたわたしの瞬間〉だともおもうんです。
瞬間を〈わたし〉のものにできるのか、それともできないのか、そもそもできていなかったのか、できるかできないかわからないけれどそれをむしろたのしんでしまうのか、たのしむことに実は〈わたし〉のしゅんかんがあるのか(これら二首にはそういうアイロニカルな〈たのしさ〉があります)。
デジタルによって簒奪されたしゅんかんと、定型によってそれを強奪しかえすしゅんかん。
いろんな〈しゅんかん〉をめぐる問題系がここにはあるようにおもいます。
目のふちが世界のふちや花粉症 山口優夢
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