【感想】好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ 陣崎草子
- 2014/06/16
- 00:38
好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ 陣崎草子
【ジャクソン・ポロックと、蛇口】
とても気になる歌だとおもうんですが、この語り手が好きなものを語りつつも、どういった価値観を大事にしているかに着目してこの歌を読んでみたいとおもいます。
そのためには、語り手が〈なに〉が好きか、よりもむしろ、〈どうして〉好きか、に注目してみるといいんじゃないかとおもうんですね。
ですから、語り手が理由を話している「だって」以下に注意してみます。語り手はこんなふうにうたっています。「だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ」と。
語り手の大事にしている価値観は、「飛びでていること(たくさん飛びでていればなおいい)」と「光っていること」です。みっつも飛び出ていて、さらに光っていたから、語り手は「蛇口」が好きなんだということだと思うんですね。
ここで語り手が眼にしているのは、水をつなぐための使用価値としての「蛇口」ではなくて、オブジェとしての、「蛇口」としての機能が失効してもなお見るべき、見られるべき価値を有するオブジェとしての「蛇口」です。おいしい水が飲める蛇口の便利さを、造型的に飛び出ていて光っているオブジェとして書き換えているのがこの語り手の視線です。というよりもこのとき語り手は、蛇口の使い方を忘却するほどにオブジェとしての蛇口に魅せられてしまっているという言い方をしてもいいのかもしれません。なぜなら、蛇口の飛び出ている部分は、ひねるために人間工学的に必然的に設計されたものであって、「飛びで」るといったイレギュラーな要素としてみっつ突き出ているわけではないからです。飛び出ているわけではなくて、そう設計されている。しかし語り手にとっては飛び出している。それは、語り手が蛇口にイレギュラーとしての、不確定で偶発的なドラマをみているからではないでしょうか。たとえば、芸術家のジャクソン・ポロックがキャンバスに塗料を滴らせて絵を描いたりしているんですが、「飛びでている」という発想や、「光っている」という〈いま、ここ〉の偶然性にたよったモーションは、そういった芸術におけるイレギュラーとも関連しているのかなと少しおもうんですよね。
ここでもういちどあらためて基本にたちかえればこれはあくまで短歌なので、短歌たる必然性があるようにおもうんです。
ここで、短歌の五七五七七の定型にそってこの短歌を句分けしてみると、
好きでしょ、蛇口。(7)/だって飛びでて(7)/いるとこが(5)/三つもあるし、(7)/光っているわ(7)
と、初句5音であるべきところの蛇口の「口」2音だけが定型をぶれるかたちになっています。ほかはすべてきっちり定型です。三句目の、「いるとこが」と、ライトな口語で縮めてまできっちり定型におさめているのに、なぜか「口」だけが定型をつきでています。
深読みになりますが、わたしは実はこれこそが語り手の〈好き〉という価値観なのではないかとおもうのです。
「口」だけが「飛びでている」。「好きでしょ」と語り手が初句で話しかけているように語り手にとって好きなものとはなによりも話しかけるものであり、伝えるものです。そして、その伝えるものとは語り手が好きなものを伝えるメディアとして選んだ〈短歌〉です。〈短歌〉は、音律のために定型を遵守します。なぜなら、短歌とは「口」ではじまり、「口」に宿り、「口」で継がれるものだからです。
もちろんこれは定型としての語り手の無意識の話です。語り手がすきなものは、蛇口です。しかし、語り手が好きな蛇口を短歌というメディアにとおしたときに、もうひとつ語り手の好きなものが「飛びでて」しまった。それが、「口」だったのではないかとおもうのです。もちろん、語り手にとって「口」にも光は宿るはずです。すなわち、
つよい願いつよい願いを持っており群にまぎれて喉を光らす 陣崎草子
【ジャクソン・ポロックと、蛇口】
とても気になる歌だとおもうんですが、この語り手が好きなものを語りつつも、どういった価値観を大事にしているかに着目してこの歌を読んでみたいとおもいます。
そのためには、語り手が〈なに〉が好きか、よりもむしろ、〈どうして〉好きか、に注目してみるといいんじゃないかとおもうんですね。
ですから、語り手が理由を話している「だって」以下に注意してみます。語り手はこんなふうにうたっています。「だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ」と。
語り手の大事にしている価値観は、「飛びでていること(たくさん飛びでていればなおいい)」と「光っていること」です。みっつも飛び出ていて、さらに光っていたから、語り手は「蛇口」が好きなんだということだと思うんですね。
ここで語り手が眼にしているのは、水をつなぐための使用価値としての「蛇口」ではなくて、オブジェとしての、「蛇口」としての機能が失効してもなお見るべき、見られるべき価値を有するオブジェとしての「蛇口」です。おいしい水が飲める蛇口の便利さを、造型的に飛び出ていて光っているオブジェとして書き換えているのがこの語り手の視線です。というよりもこのとき語り手は、蛇口の使い方を忘却するほどにオブジェとしての蛇口に魅せられてしまっているという言い方をしてもいいのかもしれません。なぜなら、蛇口の飛び出ている部分は、ひねるために人間工学的に必然的に設計されたものであって、「飛びで」るといったイレギュラーな要素としてみっつ突き出ているわけではないからです。飛び出ているわけではなくて、そう設計されている。しかし語り手にとっては飛び出している。それは、語り手が蛇口にイレギュラーとしての、不確定で偶発的なドラマをみているからではないでしょうか。たとえば、芸術家のジャクソン・ポロックがキャンバスに塗料を滴らせて絵を描いたりしているんですが、「飛びでている」という発想や、「光っている」という〈いま、ここ〉の偶然性にたよったモーションは、そういった芸術におけるイレギュラーとも関連しているのかなと少しおもうんですよね。
ここでもういちどあらためて基本にたちかえればこれはあくまで短歌なので、短歌たる必然性があるようにおもうんです。
ここで、短歌の五七五七七の定型にそってこの短歌を句分けしてみると、
好きでしょ、蛇口。(7)/だって飛びでて(7)/いるとこが(5)/三つもあるし、(7)/光っているわ(7)
と、初句5音であるべきところの蛇口の「口」2音だけが定型をぶれるかたちになっています。ほかはすべてきっちり定型です。三句目の、「いるとこが」と、ライトな口語で縮めてまできっちり定型におさめているのに、なぜか「口」だけが定型をつきでています。
深読みになりますが、わたしは実はこれこそが語り手の〈好き〉という価値観なのではないかとおもうのです。
「口」だけが「飛びでている」。「好きでしょ」と語り手が初句で話しかけているように語り手にとって好きなものとはなによりも話しかけるものであり、伝えるものです。そして、その伝えるものとは語り手が好きなものを伝えるメディアとして選んだ〈短歌〉です。〈短歌〉は、音律のために定型を遵守します。なぜなら、短歌とは「口」ではじまり、「口」に宿り、「口」で継がれるものだからです。
もちろんこれは定型としての語り手の無意識の話です。語り手がすきなものは、蛇口です。しかし、語り手が好きな蛇口を短歌というメディアにとおしたときに、もうひとつ語り手の好きなものが「飛びでて」しまった。それが、「口」だったのではないかとおもうのです。もちろん、語り手にとって「口」にも光は宿るはずです。すなわち、
つよい願いつよい願いを持っており群にまぎれて喉を光らす 陣崎草子
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